物語と利権

「この物語が広まって誰が特をするのかを考えましょう」なんて、道徳の授業でやってほしい。

「みんなで助けあいましょう」だとか、「高齢者を敬いましょう」だとか、道徳含んだ物語の読み聞かせ。 自分たちが子供の頃だと、「このときの主人公はどんな気持ちだったと思いますか?」とか、物語に 共感して、物語が本来持っているメッセージを無批判に呑み込むことを強要されて、道徳の授業はおしまい。

それがどんな物語であっても、作家が「伝えたいこと」を抱いたその時点で、 その物語は利権から自由でいられないし、よしんば物語を書いた作家自身に、 そんな意図が無かったとしても、物語は、意図を持った誰かの編集から逃れられない。

「姥捨て山」の利権

知恵ある高齢者が窮地に陥った息子を救う「姥捨て山」だとか、孝行息子に奇跡が 訪れる「養老の滝」みたいな物語を広めたのは、今で言うところの「後期高齢者」の人達なのだと思う。

昔話は、もしかしたら真実だったのかもしれないし、物語を作った本人にはあるいは 「高齢者を敬いたい」なんて意識は無くて、単純に「不思議な話」を書きたかっただけだったのかも しれないけれど、物語には「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージが含まれていて、メッセージは利権を生んだ。

「姥捨て山」だとか「養老の滝」だとか、「高齢の人間を敬うといいことがあるよ」 という物語が子供達に広まれば、敬われる側の人間、もしかしたら虐待されたり、 あるいは捨てられたりしていた高齢の人達は、その物語から利益を得られる。

同じ時代、たとえば「姥捨て」を敢行して村の飢餓を回避した殿様の話であるとか、 高齢者を大切にする余りに畑をおろそかにして、一家が全滅した農家の話であるとか、 もしかしたらいろんな物語があったのかもしれないけれど、語り手によってそんな物語は あるいは「淘汰」されて、今に伝わるのは、やっぱり「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージばかり。

語り手は、物語を選別して、後世に伝える。

高齢者を敬おう」とか、「正義は必ず勝つ」だとか、「正直でいよう」とか「みんな平等」だとか、 何となく反論できない、受け入れやすいメッセージ。こうしたメッセージは、そもそも 受け入れやすいから生き残って広まったのか、語り手にとって都合がいいから広まって、 広まったからこそ受け入れやすいのか。

卵と鶏の議論みたいなもので、今となっては結論は出せないと思う。

神様のそばには利権が隠れている

高齢者が勝つ、「正直」が勝つ、「正義」が勝つのは、実世界では難しい。

正しさなんてなんの役にも立たない。成果につながらない正直なんて、なんの意味もない。

実世界では「正義が負ける」なんてことはいくらでもあって、もちろん物語世界であっても、 裏切りだとか虚偽だとか、有効な武器が最初から使えない「正義」の側は、そもそも 圧倒的に不利な条件で戦わないといけない。勝てるわけがない。

昔話には、だからしばしば「神様」が登場する。

それは「福の神」みたいにものすごく分かりやすい形で登場することもあれば、 「偶然の勝利」みたいな、目に見えない神様の形で描かれることもあるけれど、 駆け引きを放棄した、「バカ正直」に肩入れをする超常の存在として、神様はしばしば、 物語に介入する。

神様は、物語の矛盾を強引に解決して、背後に利権を隠している。

高齢者を大切にした者を勝たせた神様は、その行為を通じて高齢者の利権を保護するし、 平等だとか、正直だとか、実世界を生きていく上であまりにも不利な価値観を「正しい」と 認定した神様もまた、その後ろで利権を得る人達を保護している。

物語の作者は「こうあってほしい」なんて意図を持って社会を描写する。実社会のルールと、 作者の意図とがかけ離れていると、社会には矛盾が生じて、物語は成立しなくなってしまう。 「神様」はだから、そうした矛盾を強引に解決する手段として、物語に登場を要請されて、 神様は、作者の意図を、あたかもそれが実社会の常識であるかのように隠蔽する役割を担わされる。

神様の力が大きな物語は、だからそれだけ、「意図」と「社会」とがかけ離れていて、 矛盾を解決するための、神様の仕事量がそれだけ大きいのだと思う。

神様の登場しない物語

道徳を含んだ物語は、そのメッセージを子供が呑み込むことで「特をする人」を生み出す。 道徳の授業が本当に子供のためのものであるなら、道徳メッセージは優劣を比較することができて、 「その物語から利権を得る人が最も少ない物語」こそが、子供に伝えるべきメッセージとなるべきなんだと思う。

敬老だとか、正直だとか、物語が始まると、主人公はたいてい、何かの価値観を背負わされる。

それは本来、実世界で背負うにはあまりにも不利なことが多くて、「自分以外のみんな」がその価値観を 背負ってくれると、語り手として「お得」な、利権をたっぷり含んだ価値観。

それをそのまま語ったところで、そもそもが間違ったそんな価値観は、物語を 矛盾無く転がせないから、矛盾を解決するために「神様」に手伝ってもらって、 そんな「誰かを有利にする物語」は、それによって有利になる人に語り継がれて、 「道徳」なんて名前を背負って、世の中に広がる。

道徳含んだ物語を語り聞かせるような授業が今でも続いているのなら、やっぱり最後に 「この物語を受け入れることで得する人達」についての話しあいを持ってほしい。

その物語が広まって、誰が得するのか。あるいは得をする人がどれだけいるのか。 主人公がどんな価値観を選択すれば、利権を得る人を最小にできて、 「神様」を物語から放逐できるのか。

「利権最小化原則」で主人公の能力を探していくと、やっぱりたぶん、 主人公が選択すべき能力は、「ものの価値が分かる」ことと、「お金の使い方を知っている」ことに行き着く。 地味な力だけれど、そんな力を持つ人は、力が強いとか、持ったものを全て黄金に変えるとか、 そんな能力を得た人をも超越できるはず。

それは市場原理主義者の妄想かもしれないけれど、「正しさ」とか「平等」みたいな 考えかたに比べれば、「神様」の仕事量は相当少なくできると思う。