ストップウォッチひとつでできる簡単! 医者潰し

病棟潰しのストップウォッチメソッド

難病の患者さんを病院で受けた。

いろいろな病院を転々としてきた人。家族の方が、病棟を評価する基準も独特。

ご家族は、ナースコールを押してから、 実際に病棟ナースが駆けつけるまでの時間をストップウォッチで記録する。

点滴が終わったと言ってはカチリ 食事を片付けてほしいと言ってはカチリ

家族の手元には、今までの記録が全部ある。前の病院も、そのまた前の病院も。

遅いとか。前の病院なら何秒だったとか。そういうことは一切言われない。

ただ「カチリ」。記録だけ。

淡々と記録を取られる毎日が1週間も過ぎたころ、病棟の空気が厳しくなってきた。

医療者サイドは日常業務をこなしているつもりだったけれど、あのとき病棟を支配していたのは、 「カチリ」というストップウォッチの音。

みんな押し潰された。

技術者を潰す方法としてこれを一般化するならば、たぶんこんなかんじ。

「正しくないパラメーターでその人の仕事を評価すると、評価を受けた技術者は潰れる」

たとえば、プログラマの人が仕事をしている後ろで、ストップウォッチ片手に陣取って、 伸びをしたらカチリ、タバコをもみ消したらカチリ、 トイレにたったらカチリとやったら、たぶん相当な嫌がらせになる。

そんなやりかた。

「正しい評価」は可能なのか?

たとえば株式のトレーダーの人とか、販売業の人とか、お金のやりとりを仕事にしている人ならば、 「売上げ」というのが評価の全て。

相手を騙してでも短期利益を重視するのか、人間関係重視で、そのうち大きく当てるのか

評価を行うのが1週間毎なのか、1年毎なのかで戦略は変わってくるけれど、 時間軸さえ変えなければ、評価はいつも「正しい」。

スポーツ選手なんかでも、たぶん同じ。 活躍する選手や人気のある選手は生き残るし、そうでない選手は不遇なまま。

エンジニアになると、このあたりが難しくなってくる。

「いい製品を作った」というのはもちろん評価の対象になるのだろうけれど、 その「良さ」が理解されなければ、その成果物は「いいもの」とは認定されにくい。

病院はもっと悪い。

「いい結果」を出すだけなら、むしろそれは簡単。特定の病気、それも死ぬような合併症のない病気 の治療に集中して、こじれそうな人からは逃げ回ればいいだけの話。

「神の手」で有名な脳外の先生だって、基本的には「良性」の腫瘍を合併症なく治す専門家であって、 悪性腫瘍患者を救う神様なんかじゃない。それであっても、十分神様だけれど。

いい結果をほめるだけなら簡単だけれど、いい結果、 悪い結果を含めたその人の仕事を「評価」するのは 本当に難しい。

正しい評価をやってもらうには、評価される側が「正しいやりかた」を示さないといけないけれど、 今の医療従事者には、この「正しいやりかた」が何なのか、たぶん示せない。

このあたりはたぶん、学校教師の人たちなんかも、同じ感想を持っているかも。

「正しい評価」が維持する士気

研修医のころは、よく本拠地から田舎の病院へ飛ばされた。

不慣れな施設で、いきなり救急業務。バックアップ体制なし。 もし万が一のことがあっても、自分をカバーしてくれるスタッフはもちろんいない。

600キロ離れた本院に泣きついても「がんばれ」の一言だけ。

歴代の先輩医師も、地方への派遣は皆「きついよ~」と言う。

つらい、厳しいと分かっている僻地医療の現場に派遣されるのは、地雷を踏むようなもの。 吹っ飛ぶと分かっているものを踏む奴はバカ。

でも踏む。

「ほら、地雷だよ。前から踏みたがってたろう?君なら踏めると思うんだ。」

内科部長はこう言って、新人の前に「地雷=派遣辞令=」を目の前に置く。

で、半泣きの研修医がそれを踏んで吹き飛ばされて、 しばらくしたらボロボロになって帰還する。

地雷が地雷であることを隠さない方法論は、それでも強力に人を動かす。

病院内では、地雷を踏んで怪我をした奴は「地雷を踏んでも生き残った奴」として名誉と賞賛を得る。

みんな地雷を踏んだ仲間。その評価はいつも「正しい」から、怪我をしてもまた地雷を踏もうと思う。

「正しく失敗した物語」を伝えること

医者叩き。

医療者側に怠慢があったとするならば、それは「成功した医師」の美談が放映されていた時代、 それに対して「現場は正しい成功だけじゃない」ということを訴えてこなかった部分なのかもしれない。

結果には「成功」と「失敗」とがあるけれど、評価には、「間違って成功した事例」と、 「正しく失敗した事例」とがあって、「間違って成功した事例」に対しては、本来医師が その人を批判的に評価するべきだったのだと思う。

マスコミが美談にするのは、正しく成功した事例と、間違って成功した事例の両方。

今批判にさらされているのは、「正しくやって失敗した事例」。

だから、それに対して医療従事者が これだけ声を上げているのだけれど、本当は、 「間違って成功した事例」に対しても医療者が批判の声を上げないと、 お互いフェアではないと思う。

  • 美談系の番組であったり、あるいはがんばって働いている医療従事者の番組であっても、 その人が「間違って」いい結果を出していたら、誰かが問題点を指摘する
  • 上手くやらないと問題になるだろうけれど、「正しく失敗した事例」というのは 医療者側がもっと公開して、 「これは悪い結果になったけれど、我々は正しくやったと評価する」と総括した物語を、みんなに示す

正当な評価の基準が自分達でも定義できないままにここまで来てしまったというのは、 やっぱり医療者側にも責任の一端がある。

信頼というのは、結局のところ過去の蓄積で生み出されるもの。

偉い人達、有名な先生方が「正しく失敗した」物語、あるいは「間違って成功した」物語を もっと伝えてくれれば、 あるいは事態も変わるんじゃないかと思うんだけれど。