理解と納得

劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。

演劇という技術

  • 演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる
  • 人間は人間を正確に把握することなどできない。だからこそ表現者は、「私はこのように世界を把握する」という認識を示していかなくてはならない。芸術家がなすべきは、評論家のように事の善悪を説くのではなく、事件を直接的に捕まえ描写すること
  • 舞台は時間軸が一定で、場面もそんなに変えられない。漫画や文章なら、100年も、地球の裏側もすぐだけれど、舞台ではそういう、出来事の連鎖によってストーリーを進めるやりかたができない
  • 小説のように、だんだんと状況がのみこめてくる展開は、用意できる舞台道具に限りのある演劇では難しい。戯曲の場合には、だからその戯曲、その舞台が何についての、どういう作品なのかを、できるだけ早い時期に観客に提示し、観客の想像力に方向付けを行う必要がある
  • 劇作家は、ストーリーの中で、ある特定のシーンだけを抜き出して、その前後の時間については観客の想像にゆだねることしかできない

リアルということ

  • 舞台設定を美術館だとして、主人公が「ああ美術館はいいなあ」と独り言を言うのは、駄目な台詞。リアルでない
  • イメージには距離の概念がある。遠いイメージから入ってくのが鉄則。それが美術館なら、絵がある、静かである、高尚な雰囲気、人がゆっくり歩く、などがイメージ。遠いほうから、「静か」「デートに向く」「交渉」などがあって、もちろん「絵がある」が一番近いイメージ
  • 伝えるべきテーマはないけれど、その代わり表現したいことなら、山ほどある。表現したい何かがあって、それをリアルにするために、舞台がある。オリザが美術館を舞台にした戯曲を書いたとき、台詞にリアルさが足りなくて、「第二次世界大戦中、有名な絵画が日本に避難してきた」という設定を付け足したのだという。付け加えられた設定で、美術館のロビーでの会話に必然性が生まれて、戯曲にリアルが付加された
  • 列車の中にヤクザがいれば、自ら好んで話しかける人は少ない。それでもヤクザが切符を落としたら、「落としましたよ」と話しかけざるを得ない。私たちはこのように、周囲を取り巻く環境によって、「しゃべらされている」
  • 舞台作家は、鑑賞者が自ら、作家の文脈を受け入れるよう、穏やかに導いて行かなくてはならない。演劇においては、文脈のすりあわせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に仮想のコンテクストを押しつけると、その時台詞はリアルな力を失ってしまう。「穏やか」というのは、「遠いイメージ」から「近いイメージ」への移行で表現される
  • 演劇とはリアルに向かっての無限の反復なのだ

会話と対話

  • 対話と会話は異なる。対話とは他人と交わす情報交換や交流、会話とはすでに知り合っている人同士の単なるおしゃべり。戯曲の素人は「会話」を台本に書いてしまう。対話がないと戯曲が成立しない
  • 情報量がほとんどないにもかかわらず、「会話」には冗長な言葉は少なく、「対話」にはむしろ、「ああ」とか「いやぁ」とか、冗長な言葉が頻出するようになるらしい。私たちは、親しい者同士の会話では、無駄な単語を使わない
  • 冗長率の高い「対話」を描くときには、だから当然、間投詞や感嘆詞が多くなり、これをやらないと「固い」言葉になってしまう
  • 会話が複雑になればなるほど、演じる側の負担というものは、むしろ減る
  • 他人はどうか分からないが、私は愛情の表現の前に沈黙する。その沈黙、一瞬の停止から演劇が始まる。演劇は静止から、無から出発する

理解と納得

  • 韓国人は茶碗と箸とスプーンで食事をする。お椀は持ち上げずに、机に置いたまま食べる。日本の俳優にそれをやらせることはできるけれど、最初は当然ぎこちなくなる。すぐに上手になるけれど、会話をしながらそれをやらせると、またぎこちなくなる。スプーンを持っているのに、「箸で食べる」動作をしてしまう。日本の俳優は、そのとき初めて、「ああ、自分は普段、こうやって箸でご飯を食べているのだ」と、自分の日常動作に気がつく
  • 芸術作品を見て人が感動するのは、突き詰めていえば、「ああ、たしかに私は世界をこのように認識している」という感覚が起点となる
  • 理解というのは事実の把握、納得というのは事態の認識

個人的にはここの下りが、「理解」と「納得」とを隔てる説明として腑に落ちた。

「理解」はそれでも案外簡単で、必然性を持った状況で、分かりやすく語ることに気を使えば、まだどうにかなる。理解というのは「相手の言葉を相手の文脈で呑み込むこと」だけれど、恐らくは納得というものは、「相手の文脈で自分の考えを再発見すること」だから、聞いただけでは分からない。

医師から話を聞かされた段階で、患者さんはそれを「理解」することはできる。「納得」した患者さんは、今度はたぶん、自分の診断であるとか、これからおこること、その時の対処なんかを、今度は自分の言葉で語ることができるようになる。何らかの状況を「理解」の先に導入することで、改めて自分が今まで行ってきた判断に気づきが生まれ、恐らくは初めて「納得」が出現する。

「納得」が正しく得られたのなら、主治医は患者さんの指示に従って動くこともできる。もはや「説得」の必要もないし、医師は患者さんの部下になれるから、「謝罪」の機会も消失する。患者さんの納得が、医師の理解とずれていたときには、価値判断の重み付けを調整する、「説得」を行う必要があるし、説得に失敗して、患者さんとの信頼関係が破綻しそうになったときには、まずは「謝罪」という刃物を振るって、状況から、感情と事実とを切り離して、事態の収拾をはかる必要がある。

「理解」「納得」「説得」「謝罪」を、こういう関係で記述することができれば、いろいろ応用できそうな気がする。