ピラミッドを登ると世界は狭くなる

砂漠の中のピラミッドが林立する世界。

大学を卒業して医者になり、どこかの病院に就職して、特定の分野の専門家になるということは、 このピラミッドを登っていくということだ。

卒業したばかりのとき。右も左も分からない状況で砂漠に放り出された研修医は、まずどうしていいのか分からない。先輩達を見てみると、みんなどこかそのへんのピラミッドを登り始めている。この世界のルールというのは、とにかく地面よりも高く上ることが「正しい」らしい。

研修医も先輩方に負けじと、見える範囲で自分に上りやすそうなピラミッドを見つけ、そこをよじ登り始める。なぜ登らなくてはならないのか、登ると幸せになれるのか、誰も教えてくれないけれど、とにかく登る。

登り始めて数年。まだほんの数段のピラミッドを登ったときには、ピラミッドの一辺はまだまだあまりにも大きい。自分の登り始めたピラミッドの大きさというのは、個人の身長に比べるとあまりにも大きく、その頂上がどこにあるのか、全く分からない。

上り始めて10年。だいぶ高いところまで上ってくると、そこから見える世界というのは非常に広かったことに気がつく。研修医だった頃、砂漠に放り出されたばかりだった頃、世界というのは自分が地面から見渡せる範囲でしかなかった。

高いところに登ると、世界はどんどん遠くまで見えてくる。

研修医のころ自分が世界と思っていた範囲はいかに小さいものであったのか。世界には、こんなにも多くのピラミッドが林立していたのか。いろいろなものが見えてくる。

「見える世界」というのは、登れば登るほど大きくなる。一方で、ピラミッドを登っている個人にとっては、「自分の生きる世界」というのは、自分の登っているピラミッドのことだ。

その段を上るほどに、ピラミッドの一辺の長さは小さくなり、頂上がその医師の視線に入ってくる頃には、 自分が登ろうとしている世界は予想可能になってくる。

ピラミッドの頂点というのは、ただ一つの石にしかすぎない。角錐世界というのは有限で、頂上がどこにあるのか分かってしまえば、自分がそこにいけるのか、後何年したら、大体どの場所にいられるのかが予想可能な世界だ。

積み重ねた年月は、人を不自由にする。

予想可能な世界ほどつまらないものは無い。自分が登ろうとしているピラミッドの世界が狭くなるほど、自分の目に入る「本当の世界」の広さが大きくなってくる。「外に出たい」。医師はしばしばキャリアを放り出し、ピラミッドから飛び降りて砂漠を走り出す。

下が砂とはいえ、運が悪ければ足を折る。別のピラミッドを登るにしても、また1からやり直しだ。上から下を見ると、砂漠に落ちて動けなくなっている奴、元気に走り出している奴、そのままそこに止まって、家など作っている奴、いろいろな連中が見える。

飛び降りた連中が本当に幸せなのか、自分のいるところはもう結構な高さなので、声は聞こえず、尋ねることも出来ない。世界の広さを実感しようと思ったら、自分が今いる高さから飛び降りるしかない。

それが本当にステキな経験なのか、それとも一生もので後悔するような愚かな行為なのか、こればっかりはダイブしてみるその瞬間までは分からない。

「飛び降りた奴、うらやましいな、自分もいつか、地面を駆けてみたいな」。そう思いつつ、今年も1段階段を上る。ピラミッドの高い所に登れば登るほど、自分の世界は予測可能になり、一方で飛び降りるのは怖くなる。

カテ屋は振り返ってはいけない」。関西方面の病院に行った先輩の上司は、以前こう教えてくれたそうだ。本当は、余計なものなど見ないで、さっさと階段の足を進めるのが正しい選択なのだろう。

結構な高さまで来た。これ以上登ったら、飛び降りれば確実に足を折る。

自分はまだ間に合うのか? 地面は固いんだろうか。