削る研修と育てる研修

民間病院の臨床研修

1年生の頃はひどかった。

入職してから、オリエンテーションに10日間。そのあとは、右も左も全く分からない病棟でいきなり30人持ち。

できるわけが無い。患者さんの把握をしようにも、名前一つ満足に覚えられない。新患など入った日には、残りの患者は放りっぱなしだ。何か頼まれたって新人には覚えられるわけがないし、 メモのとりかたや病棟での行動のしかた、トイレにいくタイミングや食事の時間、大事なものは 誰一人として教えてくれない。

新人は怒られる。理不尽な話だ。いくら怒られたって仕事はできないし、頼まれたオーダーはこなせない。

「もう駄目、辞める」と誰もが思う。実際辞める奴もいた。

それでも、もう駄目だ…と思った頃、その日は誰もが会っていないはずの患者さんはいつのまにか 診察され、適切なオーダーはすでになされている。

上司は自分よりもはるかに忙しい。新人が30人持ちなら、新人2人を抱えている上司は 60人を診察している。それでも病棟は把握され、事故もなく不思議と病棟は回る。

上級生が神に見えた。

最初はルールが分からない

要はこうすればいいのか…」というのが分かってきたのは、就職してから半年ぐらい経ってからだ。

要求されているのは、最初から無理なこと。端から丁寧に診察していたのでは、 絶対に間に合わない仕事量。

「大事なのは、上司が回診するときに必要な資料をそろえておくことで、自分が丁寧な診察をして、 適切な治療方針を考え出すことじゃないんだ」ということが理解されてからは、 だいぶ仕事が速くなった。

どんなゲームであっても、ルールブックは穴が空くほど読めという。

ルールを理解するということは、どこまで手を抜いてもいいのか、 限られた自分のリソースをどこに投入するのが戦略的に正しいのかを理解するということだ。

1年生に30人持たせて、それを全部診察して把握して、 治療方針まで決定せよというのは最初から無理な話。

当院の「ルールブック」は、実はそんな要求はしていなかった。

民間病院の「削る」研修

前の病院の研修医は、最初に無茶な要求をされて、 手の抜きかたを体で覚えさせられた。

何年経っても、仕事の絶対量自体はそんなに変わらない。慣れてくると時間が作れるようになるから、 今度はその時間を利用して勉強したり、仕事量に目を回している「去年の自分」のサポートをしたり。

臨床研修という行為は、「完成した医者」の姿になるよう、 自分自身の無駄な部分を削っていく作業だった。

当時の感覚で、完成した医者というのは、当時の自分達にとっては5年目ぐらいの上級生。 スタッフドクターは実力差がありすぎて、そもそも自分がそうなるというイメージが湧かなかった。

年次が上がると、かけ出しの医者もだんだんと上級生と同じような振る舞いができるようになる。 自分の将来像が近くにいて、自分がだんだんとそれに近づいている。当時は素直にうれしかった。

大学病院の「育てる」研修

大学病院の研修のやりかたは、民間とは逆だ。

研修医は、最初は1人の患者さんを診察する。慣れてきたら2人。さらに慣れたら4人。

だんだんと人数を増やしていって、負荷に耐えられるようになった頃には市中病院へ。 そこでもまた、少ない人数から仕事をはじめ、だんだんと負担が大きくなっていく。

上級生は存在しない。大学というところは、基本的にはスタッフと研修医師かいない。 中間層は、みんな外病院で働いているから、 自分の身近な将来像というものは自分で想像するしかない。

想像力というのは天井知らずだ。大学では、個人の力でいくらでも資質を伸ばせる。

こちらのほうが、「人を育てる」という意味では本来あるべき研修のやりかただ。

「いい医者」を作るには?

削る研修と育てる研修。臨床研修を5年やるとして、出来上がる医者のスタイルはだいぶ異なる。

削られた医者というのは、仕事が速い。なんでも器用にこなすし、受け持ちが増えても負荷に強い。

ところが分業で仕事をするのに慣れてしまって、初めてみる病気に対する対処が出来ない。 ひどいの(昔の自分)になると、「判断」することを完全に放棄してしまっているから、上司の 一言がもらえないと一人では何も仕事が出来ない。

育てられた医者は、「患者を診察して、治療して退院させる」ということを一人でやってきたから、 不測の事態に強い。

世の中で最高の治療を受けようと思ったら、優秀な「育てられた」医者にかかることだ。

自分の力で育ってきた医者というのは、手の抜きかたを知らない。 検査もきっちりやるし、診察も手を抜かない。 育てられた人達は、今までずっとそうやってきたから、他の方法を知らない。

彼らは何でも知ってるし、どんなに細かい部分も手を抜かないから、安心して現場をまかせられる。

勝負が短期間ですむならば。

ルールの抜け穴を探す「削られた」医者

削られた医者と育てられた医者、前者の方が圧倒的に強くなるのは、体力勝負の現場で長期間 働いたときだ。

最初から無茶な負荷をかけられてきた研修医は、「手」は抜けることを知っている。

教科書的にちゃんとやらなくても、 事故はまずおきないし、診察なんてやらなくても、どうせ血液検査をするなら大丈夫。 検査室と仲良くなっておけば、データなんか自分で見なくても、異常があれば教えてくれる。

「削られた」奴の医療はだ。削られて育った研修医の中では、優秀な研修医というのは 一番手を抜ける研修医のことだ。

新しい環境に飛ばされたとき、「削られた」奴は、まずはその場の「ルール」を理解しようとする。

ここでは何が大事なのか。とにかく夕方までに検査をそろえることなのか。 上司の目が届く範囲で、体を動かすふりをし続けることなのか。

少なくとも研修医であるうちは、「いい医者であること」「患者を正しく治すこと」がルールとして 求められることはありえない。上司のルールブックに記載された勝利条件と、その場での 本当の勝利条件はたいていの場合大きく異なる

「いい医者」は勝利条件になりうるか?

「いい医者」であることは、医療の世界では万能の勝利条件になりうる。

ところが、限られた条件の中でそれを達成するのは不可能だ。

バカみたいに最善を尽くすのと、ルールの中で最善の結果を出すのとは違う。

たとえば自動車レースの世界がそうだ。

F1マシンはサーキットの中でしか最速にはなりえないし、ラリーに参加する車がフォーミュラカーに 勝負をいどんだって勝てるはずがない。どんなにパワーの大きなエンジンを積んだところで、 地球上の全ての道で最速を達成する車など作れるわけがない。 逆に、勝利条件が「地上最速であること」だけならば、 今度は「地面を走る」という条件を捨てられる可能性を考えなくてはならない。 地上すれすれを飛ぶジェット機だって、 ルールの解釈によっては十分地上最速だ。

投入できるリソースというものは限られている。個人の資質の優劣はあっても、 人間誰でも24時間しか持っていないという点は公平だ。

「いい医者」をやるには非常な時間がかかる。「時間をかけてていねいに」が いい医者の条件の一つだからだ。一人の患者さんになら、誰だって「いい医者」の顔ができる。 100人相手なら、どんなに優秀な医者だって無理だ。

研修医の実力では「いい医者」になれる可能性などない。 ルールに従っているならば、「正しく」やってもいいかげんにやっても、 結果が同じならばそれで良し。

ルールは年次が上がると共にどんどん変わる。

1年目のうちは、上司から怒られなければ何をやっても大丈夫。 ミスがあれば、上級生が叱った後に直してくれる。 年次が上がるとそうはいかない。評価をするのは、上司でなく 実際の患者さんになる。

上司の目はごまかせても、病気の目はごまかせない。間違った手の抜きかたをすれば、 今度は自分で責任をとる必要が出てくる。島に1人で飛ばされた3年目。これからは自分の責任で やらないといけない…と島に着いてから初めて気がつき、愕然とした。

病棟をそつなく回せる能力と、スタンドアローンで患者を診る能力とは全く別。「育てられた」研修医なら、 両者は全く同じなのだが、自分を削ってきた研修医にとっては全く別のものだった。 それから慌てて勉強し直し、最近はやっと何とかなるようになった。

医療は技術か芸術か

「芸」と「技」は着実に分離されて行く。言葉を変えると専門化は確実に進んで行く。 どんな学問も産業も必ず通る道である。公式を見つけるのは芸だが、それを使いこなすのは技であり、 公式を覚えるのに公式を見つける能力は必要とされない。 そして公式さえ覚えていれば、フィールズ賞は取れなくても職にありつくことは出来るのだ。 404 Blog Not Found:Geek 2.0より引用

最近、大学の先生が過労で倒れた。去年から数えて、これで2人目だ。

非常にまじめだった方で、どんなに疲れているときでも絶対に手を抜かなかったらしい。

外病院は人も少ない。誰かが疲れきっていたところで、自分達は何も出来ない。

誰も余裕なんかない。5時に帰る精神科だって常にプレッシャーと戦ってるし、 稼ぎ頭の眼科医だって人生極楽ってわけじゃない。忙しい科というのはたいてい赤字だから、 眼科がいなければそもそもメジャー科が仕事が出来ない病院だってたくさんある。

大学出身の医師はまじめだ。みんな自分のことを研究者、芸術家だと思っているし、 勉強を欠かさないから診察のクオリティは高い。

その反面、大学流で育てられた人は手を抜けない。

みんなその場のルールを理解しようとしない。その施設での現実解と、 医学的な理想解との差を気合で埋めようとする。

みんな、自分の力で自分の限界を押し上げてきたから、自分の限界が分からない。 「分からない」ということは研究者にとっては罪だから、そこでまた自分を責める。

成長が喜びにならない「育てる」研修というのは、結構つらいような気がする。

最初から限界が見えると、ゴールが見える。だんだんとそこに近づけるから、 最初のショックさえ乗り越えられれば、その後はうれしい。 その代わり、ゴールが見えるということは、もしかしたら「もっと伸びる」可能性を 封じてしまっているのかもしれない。自分はそもそもそこまで行き着けなかったから、 あまり関係ないけど。

育てる研修と、削る研修。どちらが正解に近いのだろう。