技術は消費されるが芸術は賞賛される

「なぁ…知ってたか?。パリのルーブル美術館の平均入場者数は1日で4万人だそうだ。 この間、マイケル・ジャクソンのライブをTVで観たが、あれは毎日じゃあない。ルーブルは何十年にもわたって毎日だ…。開館は1793年。毎日4万人もの人間がモナリザミロのビーナスに引きつけられ、この2つは必ず観て帰っていくというわけだ。スゴイと思わないか?」 「スゴイというのは数字の話か?」 「そうではない…すぐれた画家や彫刻家は自分の魂を目に見える形にできるというところだな。まるで時空を越えた『スタンド』だ…」

行為の中の芸術と技術

全ての行為には、技術的な側面と芸術的な側面とがある。

たとえば手術がそうだ。技術的に対等な術者であっても、芸術的に優れた術者と、そうでない術者とでは、実際に手術を受けた患者さんの満足度は全く違う。

手術後の顔貌を予想しなくてはならない美容外科医、手術後の患者さんの歩行イメージを想像しながら「骨切り」のラインを設定しなくてはならない整形外科医などは、術者の「芸術」の素養が、そのまま手術の出来不出来を左右する。

技術重視。芸術重視。芸術と技術の要素の割合は診療科で様々だが、どんな技能であっても、何かしらの芸術的な要素というのは必ず存在する。

技術は消費される

技術者は論文を書く。技術は、常に再現性が求められる。新しい技術を発明したとしても、その手順をまとめて、他の誰かが再現できなければ、それは「技術」とは認められない。

新しい論文、新しい技術は、あっという間にコピーされ、名声は、それを発案した人の手から奪われる。

工業製品は、そのオリジナリティーを問われない。WindowsMacのコピー品であることは誰もが認めている(Winユーザーでも)が、それでもみんなWindowsを使う。論文から生まれたもの、技術から生まれた製品の存在意義は、便利に使えることだ。それを作ったのが誰なのかなど、だれも気にしない。

技術が陳腐化するスピードは、ますますその加速度を増している。

技術者は、つねに新しい発明が求められる。過去にすばらしい技術を開発した人は、次の機会にも大ヒットを飛ばすことを要求される。過去の技術の改良品など認められない。その分野は、すでに他社製品で「汚染されている」。

新しい技術が生まれれば、市場にはすぐにその劣化コピーが大量に出回る。オリジナルな製品は汚され、技術者は発言力を奪われ、やがて市場から忘れられてしまう。

芸術はオリジナルが大切にされる

工業製品と芸術作品、この両者を厳密に区別することは困難だ。芸術作品は、その中に技術的な要素と芸術的な要素とをあわせもっている。

世の芸術作品もまた、コピーを作るのは簡単になっている。それでも、コピーがいくら出回ろうと、オリジナルの作品の価値というのは全く落ちない。

芸術作品は、その「芸術度」が高くなるほど、人は実物を求め、コピーでは満足しなくなる。

たとえば、「モナリザ」や「ミロのビーナス」のコピーを、自宅の床の間に飾る人は少ない。 技術的には、単なる油絵であり、単なる石像。オリジナルに限りなく近いコピーを作るのは簡単だ。 どんなに精巧なコピーであっても、それが日本の床の間にあるのなら、誰でもコピーだと分かる。 それを飾るのは、ちょっと恥ずかしい。

コピーが飾られても満足度が高く、またコピー品にも所有の喜びがあるのは、もっと「親しみやすい」、技術の度合いの高い作品。例えばいわさきちひろの絵本であったり、ラッセンリトグラフであったり。

ミロのビーナスが居間に飾られていても客が引くだけだが、こうした親しみやすい作家のポスターやリトグラフというのは、他人の家においてあっても、素直に「いいな」と思える。

コピーを持っている作家であればなお、近くで回顧展などが開催されれば、みんな見に行く。引越しのときなどに画集をなくすことはあっても、好きな画家の名前を忘れることは無い。

評論家は技術者を叩く

評論家は、技術者の失敗を叩いて人気を得る。

技術者が作った製品は、世の中を少しだけ便利にするかもしれない。そうなったら、その翌日からはその状態が「当たり前」になる。進歩が止まれば技術者は無能と罵倒される。技術者が何か失敗すれば、その人は人生を失うまで叩かれる。

失敗した技術者を叩く評論家は、「市民の声」を代表するヒーローだ。

彼らは技術者が嫌いだが、芸術家には敬意を払う。

自称「患者の代表」が医者を叩いたり、病院を廃業に追い込んだりするとと、世間はその人を賞賛する。一方、ダヴィンチに批判的な人間が、モナリザを「駄作だ」と破り捨てたりすれば、国際問題に発展するだろう。

技術者の作る製品と、芸術家の生み出す芸術作品。両者の「何が」違うのかを厳密に定義するのは難しいが、その評価は正反対だ。

芸術は査定を拒む

例えば、いわさきちひろダヴィンチ、ピカソといった画家の作品を並べ、誰が一番上手なのかを比べる行為に意味があるのだろうか?

過去の芸術家のうち、誰の構図が一番正確か。だれの筆圧が、番均一なのか。誰が一番画材に金をかけていたのか。こんなものをいくら比べても、作品を見る人たちのスタンスはぶれることはない。

「好きか、嫌いか」。統計は、芸術作品を査定するためには何の役にも立たない。

技術と芸術というのは、その評価の次元が違う。

技術は数字で表現できる。芸術は査定を拒む。

工業製品は、その優れた点を数字で説明される。技術者の作品は数字で解剖され、その発明者とは何の関係も無い人たちに査定され、叩かれ消費される。

芸術は、査定を拒む。「分かる」人たちは、評論家がなんと言おうとその作家を賞賛するし、何百年たっても、オリジナルは大切にされる。

技術者の暗黒時代

技術者は名前を隠す。もちろんペーパーには名前が載る。それでも、研究から生まれた成果に、研究者のサインが入ることはまれだ。

例えば瀬戸大橋。当時世界最大だった芸術的な吊り橋が完成したとき、その開通式のテープを切ったのは地元の政治家だった。その橋の完成には、様々な技術的なチャレンジ、技術者のドラマがあった。橋を完成させた技術者の一人は、開通式のその日、橋のそばの駐車場の整理に駆り出されていたという。

当時大絶賛された件の橋は、今では赤字を垂れ流すバブルの遺産としてマスコミに叩かれ、批評家は技術者を批判して、名誉と賞賛を得た。

医療の世界にも、「EBM」という人たちがいる。彼らは現場の医者を叩く。統計を操り、現場の医者がいかに愚かしいかを喧伝し、世界の医療を正しい方向に導く市民のヒーローだ。

彼らの愛する統計学は、医療という行為を数字で査定し、単なる技術の枠に押し込んで消費する。あの人たちは、統計は好きでも、医者、あるいは医療という行為は嫌いなのだろう。

工業製品はコピーされ、消費され、技術者は批判される。芸術作品はオリジナルが大事にされ、成功した芸術家は幸せになれる。

同じ人間が作ったものなのに、両者の扱いはずいぶん異なる。

この両者を隔てるものは何なのか。芸術家は答えを出している。

工業製品だって芸術になる

1917年、ニューヨーク最初のアンデパンダン展に出品を乞われたマルセル・デュシャンは、彼の作品「レディ・メイド」のひとつ、「泉」と名付けた既製品の便器を出品しようと企てた。

しかし、単なる便器でしかない「泉」は、当然予想されたように、展示を拒否された。デュシャンはそのことをまとめて新聞に意見広告を出し、芸術とは結局何なのかを問うた。

デュシャンのこの作品は、もっともインパクトのある芸術作品を決めるアンケートで、見事1位に輝いたという。このアンケートの結果は、2位はピカソの「アヴィニョンの娘たち」で、3位はアンディー・ウォーホルの「Marilyn Diptych」だったという。

デュシャンの出品した便器は、既製品なので今でも買える。デュシャン自身のサインは入っていないけれど。

既製品の便器と、デュシャンの「泉」。この両者を隔てているのは3つの点だ。

  • 芸術家は作品にサインをする。「泉」には、R・MUTT と、デュシャンが記したサインが入っている。
  • デュシャンは、買った便器に「泉」という題名をつけた。単なる工業製品であっても、芸術家が名前を付けると、それは「作品」となる。
  • 名の知れた芸術家が便器を出品し、それが会場から拒否され、撤去されたという一連の事件は、それ自体が「アート」として賞賛された。芸術は、作品ではなくそれに伴う物語にも価値が見出される。

評論家が「工業製品」と貶める技術を、芸術に昇華するのは簡単なことだ。

技術者はサインし、題名をつけ、適当な「伝説」をその作品に付加する。技術者は芸術家に昇格し、製品を作る人も、それを受け取る人も、どちらも幸せ。批評屋は失業。

芸術面を前面に出す医療

病院はかつて、その技術力を数字にして公表した。手術の成功率、ベッドの回転率。平均在院日数や、外来患者数。そうした数字に医療評論家は喜び、病院は数字で査定されて消費され、医者も患者も不幸になった。

医者は技術者。医療は技術。その定義のしかたは、本当に正しいのだろうか。

北里大学(研究所病院のほう)の美容外科が大繁盛している。今は外来は2ヶ月待ち。予約も取れないぐらいの状況。たぶん大黒字。

美容形成外科という分野は、もともと芸術的な要素が強い科だ。たとえ手技的に完全であっても、手術が終わってみないことには、患者さんの満足度というのは分からない。何をもって「成功」というのか、「いい美容外科医」とはどんな人のことを指すのか、数字で説明するのは難しい。

数字で説明できない分野は、技術の分野からは疎んじられる。美容外科医は大病院で働くことは少なく、市場のニーズはあっても、誰もどこが信頼できるのか分からなかった。

こうした空白地帯に、美容形成という分野に「大病院」という付加価値を付けることに成功した北里病院は、市場で大成功をおさめている。

「大きな病院が美容形成をやると上手くいく。」 これは技術の領域の問題だ。再現性がある。

もしもこんなことを信じる病院があるならば、たぶん失敗するだろう。

北里大学の美容外来にかかっている人たちは、「北里の美容外科」にかかりたくて、予約を待っている。単なる「大きな病院の美容外科」にかかりたいわけじゃない。オリジナルがほしいから、コピーが嫌だから、わざわざ東京まで出向く。この価値観は、工業製品ではなく芸術作品に対する価値観だ。

技術は共有、伝達が可能だが、芸術はそれが不可能で、競争者が存在できない。

もともと、医療という行為は技術と芸術、2つの面を持っている。技術は学べる。どんな手技でも、誰でもある程度のところまではいける。

一方、そこから先に進めるのは、限られた人たちだけだ。どこの大病院にも、もはや「エストロ」とでも呼ぶしかないような技術を持つ人、診断の名人や手術の名人、何かの手技の達人といった医師は、必ずいる。誰でも、その人たちと同じことは出来る。でも、その人自身にとって変わることは、誰にも出来ない。

医師は自分達を技術者であると定義するから、こうした芸術性を声高に宣言することを好まない。

真のベテランと、その直前の人。技術的にはほぼ同等でも、どうしても超えられないわずかな差。この差こそが、一部のベテランの手技を「芸術」にしているのだが、その技術面だけしか見ないなら、その差は誤差範囲だ。

芸術のセンスのない評論家、国立病院の事務みたいな医療を芸術と認めたくない人たちは、そもそもこの差が分からない。だから数字に逃げる。数字は医師以外の人たちに美味しく利用され、寄生虫にたかられた病院は潰れていく。

芸術家はアートを「アートである」と宣言して生き延びる。

病院も、こうした医師の芸術面をもっと評価するべきだと思う。自分の施設の医師は、なぜ特別なのか、その人がその人になるためにはどんなドラマがあり、何がその専門家をして「芸術家」たらしめているのか。その物語を発信することで、医者と患者はもう少し幸せな関係を築けるかもしれない。

世界のスケールをめぐる世代間抗争

ところで、ベテランが「芸術家」化した世界というのは、それぞれの分野の特定の専門家に患者が集中し、勝者はますます栄える世界だ。専門的な技能を持つ者、権威のある者は幸せになれるが、いろんな分野をそこそここなす医者には、住み心地は悪いかもしれない。

一般内科医が生き延びやすい環境というのは、世の中のルールがコロコロ変わる不安定な環境、全ての技術が数字で査定され、ネットワークを通じて共有され、消費される、そんな社会。

昔ながらの徒弟制度、師匠を頂点としたピラミッドが林立する世界では、ピラミッドを登れない一般内科医は、いつまでも地面を這いずり回るしかない。一般内科が志向するのは誰もが地面を歩く社会だ。ピラミッドは崩れて平地になり、フリーマーケットのように、いろいろな人が少しずつ、技術を持ち寄り共有する社会だ。

  • ネットワークの力で、社会の変化を加速させようとする一般医
  • 個人のサインの力、物語の力で、社会の変化の速度を抑えて延命をはかる専門医

他者に査定されることを拒否する「芸術家」化したベテランと、世の中の技術の全てを査定して、単なる数字として消費し尽くそうとする、新世代の医師との世界観をめぐる争い。

どちらが世界に支持されるのか。どちらが「患者さんのため」になるのか。いずれにしても、「自分」という商品の価値を、必要なときに発信できない奴は、今後真っ先に淘汰される。単に「いい医者」でありさえすればよかった時代は終わり、自分が「どう」いい医師なのかをプレゼンテーションする能力は必須のものになるだろう。

医療は技術か芸術か。

われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、 われわれの愛も、また科学的であっていけないわけがありましょうか?

全ての医師は、いつかこうした問いによって、自分のとるべき立場を試されることになる。

一般内科医を目指すなら、答えはもちろんYesだ。