「なぜ?」 の効用

従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語ってみせるだけでいい。

暴言の効果は少ない

暴言で部下を従わせるやりかたや、あるいはみんなを集めてスローガンを叫ばせるようなやりかたは、暴力的な見た目に反して、実際の効果は少ない。

「絶対にやれ! 」 なんて暴言を行使する上司は、現場の側からは「嫌な奴」に見える。「嫌な奴」の命令に心から従うのは難しい。明示的な悪役として振る舞う誰かの存在は、現場の空気を厳しくする一方で、一種の安全弁としての機能を提供する。

人間をとことん追い詰める、無理の限界をはるかに過ぎて、それでも働くことをやめられない、体を壊したり、亡くなってしまったりする領域に誰かを到達させるためには、暴言だけでは威力が足りない。そうした領域に誰かを追い詰めるために行使されるのは、「やれ! 」という命令ではなく、「なぜ?」という問いかけなのだと思う。

「なぜ?」 は役に立つ

「できない」という現場の声に、徹底的に「なぜ? 」を問う組織は、ときおり爆発的な成果をあげる。

「できない」という声に対して「やれ!」 と命じてしまうと、命じたその人が悪役になる。怒鳴っても結果がついてこなかったら、今度は悪役が責任者になる。現場に対して「なぜ? 」をたたみかけて、返答に詰まったことを「できる」の根拠にするやりかたは、次の「できない」が、現場の責任へとすりかわる。

「できない」という言葉に対して、徹底的に「なぜ?」を重ねる。「できる」ことを本人に発見してもらう。そんな空気を醸成すると、すべての「できない」は現場のせいになる。誰もが倒れるまで働くし、それが必要であれば、法も破ってくれる。全ては「現場の判断」で行われる。上司はそれを、大笑いしながら見下ろしていればいい。

ブラック企業はみんなでスローガンを叫ばせる。綺麗なスローガンは「なぜ? 」を問う根拠であって、「ブラック」と形容される組織では、あらゆる「できない」に「なぜ?」 が問われる。「仕方がない」の気分がその場から徹底的に排除されることが、ブラック企業をブラックにしているのだと思う。

やさしいやりかたの怖さ

できないと思っている誰かに対して、「なぜ?」を重ねて望ましい結果に誘導する、コーチング的な、「できることを自分で発見してもらう」やりかたは、見た目こそ優しげだけれど、道具としてはおっかない。

大昔の小学校には、「逆らったらもれなくビンタ」の怖い先生がいた。現代の先生がたは、子供に優しく「なぜ? 」を問う。「ビンタ」と「問いかけ」と、見た目が怖いのはビンタだけれど、道具の威力は「問いかけ」のほうが圧倒的に強力で、使いかたを間違えるととんでもない結果をもたらす。

穏やかそうな見た目の方法を駆使する誰かが、自分が今使っている道具の威力を自覚していないことは珍しくない。人も殺せる威力を持った道具が、案外無邪気に行使されていたりする。そういうのが恐ろしい。

神様は便利

コーチングを受けたスポーツ選手は、実際に成績が向上したりする。コーチングは単なる説得ではなく、その人の抑制を外すための方法だから、上手に使えば高い効果が期待できるけれど、外す場所を間違えるととんでもない方向に暴走する。

「なぜ?」 という問いかけを重ねると、その場から「仕方がない」という気分が放逐されていく。そうした空気に、「だって、仕方ないよね?」と水を差してやると、状況はリセットされて、場は健全な気分を取り戻す。ところがたぶん、水を差すのは大変で、空気に抗えるだけの勇気と知力、上司と拮抗できるだけの暴力とを持っていないと難しい。

「なぜ?」 を重ねるやりかたは強力だけれど、その威力が発揮される前提として、その場に過剰な理性を要求する。追い詰められた状況で、自身の内部に神様を持ってる人は、「信仰上の理由でそれを受け入れることはできない」というカードを切ることで、場の理性に拮抗できる。

理性を根拠にした問いかけに対する返答として、「信仰」という理不尽が導入されると、上司が更なる「なぜ?」 を重ねようと思ったら、「お前の信じる神はクソだ」と断じる必要に迫られる。問題は解決しないかもしれないけれど、「なぜ? 」の連鎖は大抵断たれる。

「なぜ?」 に対する安全装置として、自身の内部に「神様」的な理不尽を常に持っておくことは、きっと大切なことだと思う。