「ない」ことと「必要ない」こと

単なる自由には意味がない

自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。

飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在しない現代社会なら、鳥人だってたぶん、電車に乗って移動する。「できる」だけでは足りなくて、それが切実な機能として要請されて、世界はようやく書き換わる。

あるべきものがない状態は不自由を産んで、それがどれだけきれいな機械であっても、ユーザーはどこかで妥協を感覚してしまう。

ボタンのない機械は不便

最近のタブレット端末にはボタンがついていない機種が多くて、ボタンだらけの携帯電話に比べれば、タブレットの佇まいはたしかにきれいなのだけれど、使っているとやっぱり、たまにボタンがほしくなる。単なる「ない」を「必要ない」に変えるためには、機械の側に、「それがいらない」機能を作り込む必要があって、今のタブレット端末は、まだまだ「不自由なボタン」から自由になっていないような気がする。

ボタンはたいてい、何らかの判断や、選択を行う際に必要になってくる。機械を持った人が「こんなことをしたい」と考えて、目当ての機能に紐づいたボタンを押す。選択を行う以上、ボタンの存在は必然であって、画面に設けられたソフトウェアボタンは、どうしてもどこか、「押せるボタン」の劣化コピーに思えてしまう。

「ボタンがない機械」が「ボタンの必要ない機械」になるためには、ユーザーを取り巻く状況から、選択や判断という行為それ自体を追放しないといけない。具体的にはたぶん、「画面を触ったらあらゆるアプリケーションが全部立ち上がる」ことが、「ボタンの必要ない機械」の正解なのだと思う。

ボタンが必要ない機械

それは「位置」であったり「時間」であったり、あるいは外からの入力であったり様々だけれど、人間の行動は、何らかの文脈にそって行われることが多くて、ある文脈で必要になる機能は、大抵の場合それほど多くない。たとえば自宅で安静にしているときに、タブレットに求められる機能はといえば、メール確認とブラウザ閲覧、TwitterFaceBook の確認ぐらいがせいぜいだと思う。

使う機能が4つであるのなら、「自宅にいる」という状況に4つのアプリケーションを予め紐付けしておいて、「ユーザーが画面を触ったら、4つのアプリケーションが同時に立ち上がる」という設定を行うと、ユーザーが端末を使う際に、選択が発生する余地を追放できる。ユーガーが画面のどこかに指をおいたら、そこを中心に画面が4分割された状態で立ち上がり、それぞれの画面にそれぞれのアプリケーションが割り当てられる。そのまま指をずらせば、4分割された画面の中心がずれて、ある画面は大きく、ある画面は小さく表示され、ユーザーは選択を行うことなく、好きな機能を行き来できる。

「Tasker」 みたいな機能に、無駄にアプリを立ち上げるランチャーを組み合わせることでこうした機能が作れるのではないかと思う。アプリケーションが無駄にたくさん立ち上がる上に、その文脈に乗っからない機能については選択がいきなり面倒になるけれど、ボタンを持たない機械がボタンを持った機械を超えようと思ったら、何らかの手段で「必要ない」を獲得してほしい。