研修医の潰しかたを考えよう

平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。

平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そこから戦争につながる道筋を断てるのか、問題解決のやりかたが発想できない。ひたすらに平和を願う人達は、平和を願った結果として、相手の軍隊に間違ったメッセージを送ってしまう。会話が成立しないから、コミュニケーションが破綻した結果として、学習抜きの平和祈願は、むしろ戦争を近づける。

失敗を防ぐには陥れかたを考える

「平和を欲するのなら戦争を学べ」の論理が正しいとして、たとえば失敗を防ごうと思ったのならば、「失敗させるやりかた」を研究するのがひとつの方法なのだと思う。

どうすれば失敗を防げるのかを考えるのは大事だけれど、どうやれば相手を陥れることができるのか、暗黙にプレッシャーをかけてみたり、あえて曖昧な指示を出してみたり、誰かにミスを誘発させるやりかた、一種のいじめの方法論みたいなものを大勢で真剣に考えることで、失敗はたぶん遠ざかる。

「どうやって防ぐのか」という立ち位置は、どうしても道徳から自由になれない。「みんなで頑張りましょう」を難しい言葉で言い換えたような結論に逆らうことは難しいし、「指差し確認」とか「ダブルチェック」みたいな、間違ってこそいないのに、失敗につながる緊急事態には必ず省略されてしまう手続きが、平時の手順を複雑にしてしまう。

良心に基づいた邪悪を排除する

防ぎかたではなく、攻めかたを考えることで、「何が悪いことなのか」が会議室に共有される。たとえば失敗を防いでいく上で、「現場に気合を入れる」ことは明らかな間違いだけれど、「気合」はたいてい良心に基づいて、防ぐ空気の会議室では、これを「悪い」と断じるのが難しい。

「誰かを陥れて、その人にミスを誘発するのにどんなやりかたが有効なのか」という議論は邪悪だけれど、これを行うことで、何をすればミスが増えるのか、どんな振る舞いが邪悪につながるものなのか、「悪いこと」の定義ができる。邪悪の認識が会議室に共有されて、ようやくたぶん、議論の場から「良心に基づいた邪悪」を排除することができるようになる。

職場に新人が入ってくる季節だけれど、研修医を潰さず育てようと思ったら、まずは病院の上司が集まって、研修医の潰しかたを学ぶのが正しい。

立場が弱い研修医には、いろんな人が、「良かれ」と思っていろんなやりかたを試みる。教える誰もが下級生を「きちんと」育てようという思いを持って、でも実際問題として、良かれと為された試みは、一定の確率で誰かを潰す。こうした結果はたぶん、「教えかた」こそ学ばれるけれど、「潰しかた」が共有されない現場の限界であって、教える人たちは、まず何よりも潰しかたに熟達しなくてはいけないのだと思う。