道徳とルールの間

少し前、警察の任意取り調べにおける録音は、是か非か? という議論が話題になっていた。 法律家の卵(?)の人が、取り調べの現場に録音機を導入することの弊害を説いて、「そんなことはない」という突っ込みを受けて、 ちょっと盛り上がっていた。

道徳とルールには溝がある

世の中にはたぶん、「道徳」が好きな人と「ルール」が好きな人とがいて、両方とも、同じところを目指しているわりに、お互いの溝はけっこう深い。

くだんの議論で録音機の弊害を説いていた方は、恐らくは正義感が強い人であって、録音機という、「人間は必ず嘘をつく」ということが半ば前提になっている機械を 仕事場に持ち込むことに対して、嫌悪感みたいなものを持っているのだと思う。

一方で、録音機というものは、米国司法の現場であったり、「言った言わない」が問題になる仕事の現場では、もはや当たり前のように用いられている 道具でもあって、どんな業界であっても、録音機の導入以前とそれ以後と、会話の文化に変化はあったのだろうけれど、どこの業界も、 録音機というルールに適応した、新しい会話の技法というものを身につけているように思える。

「お互いに信頼を大切にした、穏やかで誠意ある関係」というものが嫌いな人は、たぶんそんなに多くない。

道徳の好きな人たちは、「信頼を大切にしましょう」という道徳が全ての人に浸透した結果として、こういう状態を好ましく思うのだろうし、 ルールが好きな人たちは、そこに参加する全ての人が保身に走って、利己的に、自分の利益を最優先するように振る舞うことが出来れば、 結果として、抑制の効いた、穏やかな関係が作れる、そんなルールを考える。

目指している場所はそんなに変わらないし、「穏やかで誠意ある」は、ルールや道具で実現可能なものなのに、 道徳が好きな人たちから見れば、ルールで「作り出された」この状況は、形だけのものであって、内面が伴わないから、意味のないものに見えてしまう。

形にできないものを信じる人と、形にできるものだけを信じる人間と、このあたりは分かりあえない。 自らの保身よりも、正義の実現を選択するような人は、前者にとっては人間の鏡なのかもしれないけれど、 後者にとっては、保身を顧みない人というのは、要するに「ルールを破る」人だから、むしろ真っ先に排除されてほしい人に思える。

録音というルール

録音という手段は、お互いに自制した状況を生み出す上で、形だけを重んじる立場からすると、便利な道具としてうつる。 録音されているからこそ、うかつな言葉は口にできないし、結果として、恫喝するような、口汚く相手を罵るような、 トラブルの原因を生む言葉というものは、その場から自動的に排除される。上っ面ことにしか過ぎないけれど、 そういう言葉を禁じられるだけで、人間はずいぶん冷静になれる。

録音という技術はその代わり、形に残るものしか残さない。録音できない価値はログに残らないから、 正義や誠意、気迫みたいなものを重んじる人たちにとっては、録音機という道具は、やっかいと言うよりも、 汚らしいものに見えるのかもしれない。

録音機というものは、会話の席に導入された、単なるルールであって、取り調べを行う側にも、調べられる側にも、本来は等しく有利不利をもたらす。

ルールが変わると、会話の性質はずいぶん異なってくる。録音が前提の会話は、 お互いの信念や正義のぶつかりあいというよりも、何かのゲームのような雰囲気になる。 「正義は我にあり」みたいな気迫は録音できないし、どれだけ些細な論理の瑕疵も、あとからさかのぼって追及される。

米国の司法制度に巻き込まれた人たちは、司法の現場というものが、強制的に参加させられた、 不自由で理不尽なルールに縛られたゲームのようなものに写るのだという。

録音機とビデオとを導入して全面開示、ということを実際にやると、ルールは間違いなくオープンな方向に行くのに、 何というか、世間から見て「ずるい」結果に終わったり、警察の人が「ふがいない」と断じられるようなケースは、むしろ増えるような気がする。

「停止」というルール

米国の警察官は、「フリーズ!」と怒鳴る。日本の警察官は、イメージとして、状況を「被害者」と「加害者」に分けようとする。

病院では時々、泥酔したりしてどうしようもなく暴れる人が運ばれてきて、救急隊でも手に負えなくなると警察を呼ぶのだけれど、 警察官の人たちは、暴れる人を抑えてくれる。自分たちの側からすれば、あれは本当にありがたいのだけれど、 警察を呼ばれた側にしてみれば、自分の言い分を聞きもせずに、白衣を着た男の言うことを鵜呑みにして手足を押さえつける警察官を、 とても理不尽な人物だと思っているのかもしれない。

病院と、誰もが武装している事件現場とは比べられないけれど、米国の警察官が「フリーズ!」と叫んだら、とりあえず止まらないと撃たれる。 被害者加害者でなく、とりあえず「警察が来たらみんな止まる」というルールだけがあって、みんながじっとした状況で警察が武装を解除して、 それからたぶん、両者の言い分を尋ねることになる。

病院であれをやるなら、警察を呼んだら、とりあえず医師も患者さんも、みんな腕を後ろに組んで床に伏せて、 「動いたら逮捕」というルールになるのだろうけれど、個人的にはそれでもいいのではないかと思う。 状況はそれでも、少なくとも「手に負える」ものにはなるし、自分たちは要するに、次の患者さんの診察に移れればそれでいいわけだし。

「停止」の枠内で行動すると、警察官の人たちは、正義の執行者と言うよりも、単なるルールになってしまう。警察の仕事は、 その場に正義を実現することではなくて、とりあえず状況を止めて、お互いの勢いや気迫を殺して、両者の言い分を聞いて記録して、 警察の見解に基づいた、問題を解決するための暫定的な方針を提供することへと変化する。

単なる道具に成り下がるのは、もしかしたら面白くないかもだけれど、どちらが加害者なのかがよく分からない状況で、 一方的に権力の手先みたいに叩かれて、実際に問題と対峙する現場の人たちは、「単なる道具」でいられるほうが、むしろ負担は減るのだと思う。

裁量は現場を窒息させる

東京都の漫画規制のような、現場の裁量を大幅に認めるような規則というのは、規制する側の現場の人たちは、必ずしもあれを歓迎しないような気がする。

道徳を強化するようなやりかたは、作るとどうしたって一人歩きする。 強力な力を与えられて、それを運用する側は大喜びなんてことはなくて、 裁量の範囲が大幅に増えた結果として、現場の責任は大幅にまして、風当たりは今まで以上に強くなる。

裁量の範囲が増えれば、どうしたって「上」を意識せざるを得なくなる。規制する側の人たちだって、昨日まで「白」だった何かと対峙して、 今日から「黒かもしれない」と、もっと上の方に居るであろう、やんごとなき誰かの意志に配慮しないといけない。

もちろん作る側の反発は強くなるだろうし、かといって、力がついたら、それを使って見せないと、「上」は恐らく納得しない。 板挟みになった結果として、じゃあ「上」に決めてもらおうなんて探してみたら、配慮していたはずの誰かは「現場の裁量で」なんて 逃げられたり、「実は上なんて居なかった」なんて結果になって、規制や規則が増えるごとに、結果として規制する側の現場は窒息していく。

「診療ガイドライン」のようなものも、必ずしも現場を楽にしてくれている面ばかりではないのだと思う。

ガイドラインには、どこかに必ず「最後は現場の判断で」運用すべき場所というものがあって、ガイドラインを、本当にガイドラインどおりに 使おうと思ったら、それを作った「上の人たち」が実際のところどう思っているのか、それを知らないと、自分の運用が果たして正しいのかどうか、 現場にはしばしば判断できない。

がんの闘病記を読むと、何かの悪性腫瘍が診断されて、その疾患を自分の施設で治療すると「治療成績が落ちるから」、 いくつもの癌治療病院を転々とするエピソードが描かれていることがある。自分たちが「成績」を比べあいすることなんてないし、 ああいうのはたぶん、病気の進行度が判断に迷う場所であって、ガイドライン時代の昨今、自分の判断がガイドラインに照らして本当に正しいのか、 現場はしばしば、自分1人では判断できないからなのだと思う。

何かの道徳を実現するために、それを執行する現場の裁量が増やされた結果として、現場はたぶん「無能の集まり」へと変化する。 それは窒息の悲鳴なんだけれど、「上」の人たちがそれを聞く頃には、現場は疲弊して、回らなくなってしまうのだと思う。