ロボットの神様

医療従事者が人であるかぎり、理不尽な思いを受け止めるのは人の役割で、現場からはトラブルがなくならない。

人しかいないその場所に、人が行っていた仕事だとか、判断を、肩代わりしてくれる機械が置かれると、理不尽な状況に居合わせた人の感覚が、怒り以外の何かへと変化することがある。

心臓マッサージを行う機械

心臓マッサージを行うと、医療従事者は汗まみれになる。あれはけっこうな重労働で、30も過ぎた人間が15分もマッサージを続けると、息が上がる。

「汗」というのは目で見て観測できる。患者さんのご家族はときどき、汗の量から主治医の熱意を測定する。ご家族が測定した医師の熱意が、期待された量を下回っていたら、そのことがきっかけになって、怒りの対象が医師に向かうことがあるのだと思う。あの動作を、人間が汗まみれになるような、心臓マッサージの動作を機械にやらせると、たぶん感覚がずいぶん変わる。

心臓マッサージを自動的に行う機械というものがあって、要するにそれは、機械式のピストンが患者さんの胸で上下する道具なんだけれど、大きな音がして、患者さんの体はいかにも「機械に生かされている」ような動きかたをするらしい。それを見ていると、ご家族の側から、「もう止めて下さい」なんて申し出を受けるんだという。人の手が入る余地がない、汗をかかない機械というのは、それを見た人に、あきらめを促す効果というものを、なぜだか持っている。

機械の命令で動く人

10年ぐらい前までは、重篤不整脈を生じた患者さんが助かる確率は、決して高くはなかった。その頃すでに、不整脈を自動解析する心電図モニターも、不整脈を治療するための除細動器も、あるいはそうした道具を使いこなすための、救命救急士の資格を持った消防隊の人も、全部そろっていたのだけれど、救急車の中で、除細動器のスイッチが押される機会は少なかった。

自動的に不整脈を解析して、救急隊に除細動を指示する道具、自動除細動器というものが海外から入ってきて、「その患者さんが不整脈であるかどうか」という、相当に重たい決断を、「外人が作った機械」が肩代わりしてくれるようになって、救急車の中で除細動が行われて、病院に来たときには心拍が再開している患者さんが、この何年間か、ずいぶん増えた。

判断が「人」にゆだねられていた当時、それを決断できる人、その責任を背負える人がどこにもいなくて、除細動を行うことは難しかったのだけれど、外国製の、判断を行う機械が国内に入ってきてから、人は責任から解放されて、結果としてたぶん、ずいぶん多くの人が助かるようになった。

あの機械に「外人のお墨付」がついていなかったら、日本の技術者が、行政の指導下に開発を行っていたら、まだ除細動器は世の中に出なかったし、販売されてもたぶん、「動作に関しては現場の判断を優先する」とか但し書きがついて、使えなかったんじゃないかと思う。

ロボットという神様のこと

人の行っていた動作だとか、判断を肩代わりしてくれる機械、「ロボット」というものは、人の召使いであると同時に、「神様」の役割も果たしているのだろうと思う。

「機械に怒ってもしょうがない」なんて、機械を見て、たいていの人はそう思う。ましてや「外人がつくたメカ」になんて、怒りをぶつけられる人は、そうそう出てこない。

ところが汗をかく人間、悩む人間に対して、多くの人が怒りを表明して、自ら感覚した理不尽さを埋め合わせようとする。怒りはやっぱりないほうがいいだろうから、医療の現場みたいな場所からは、汗だとか、悩む人が観測される機会はを極力減らして、そこをロボットに肩代わりしてもらうべきなんだろうと思う。

手塚治虫の「火の鳥」に出てくるロビタなんかが代表だろうけれど、ロボットというのは、人の召使いであるのと同時に、人にあきらめを促すための、神様みたいな役割を演じることがある。人しかいない場所にロボットが割り込んでくると、人の価値判断は、ずいぶん大きな影響を受ける。ロボットは、単なる「便利」以外に、目に見えない、いろんなものを提供している。

絶対的な機能よりも、ロボットが置かれた状況というものに、大きな意味があるんだろうと思う。自動的に心臓マッサージを行う機械は、ピストンが単純に上下するだけの、判断を行う能力を全く持たない機械だけれど、あれがついて、しばらく動いたその時点で、それを見たご家族は、医師を叱る代わりに、機械に対してあきらめを表明することで、理不尽な状況を受容する。

理不尽さの引き受け手がいなくなった世の中で、人にあきらめをもたらす神様としてのロボットというものが、病院の抱える問題を、部分的にせよ解決していくような気がする。