平凡なのにはわけがある

扱う問題が大きな時こそ、従来のやりかたを踏襲した、平凡な提案が選択されることが望ましい。いくつもの問題を一気に解決できるような「画期的な」提案は、それが必要に思えたときこそ、見落としている問題点が本当に無いのかどうか、慎重に検討されるべきなのだと思う。

ラードームのこと

球体は、最小の表面積で最大の空間容積を稼ぎ出す形であって、それを実体化したフラードームは、住宅の理想を突き詰めたありかただったけれど、結局一般化しなかった。

以前どこだかの観光地で入ったお店がフラードームで、作り付けの椅子や机がかっこよくて、吹き抜けになった天井の広さに驚いた。遠い将来、住宅を建てる機会が得られるのなら、もうこの形式以外考えられない、という程度には入れ込んで、実際にドームを建てるつもりになって、いくつかのモデル住宅を見学したこともあるのだけれど、今度は逆に、その使い勝手の難しさに驚かされた。

ラードームには、雨漏りのコントロールが難しいとか、熱がこもりやすくて実際にすむのは大変だとか、建築学的な問題ももちろんあるのだけれど、いざ「ここに住もう」という目線でドームに入ると、今使っている家具をそのまま置く場所が見つからなかったり、ドアを抜けると全ての部屋が視界に入って、その見通しの良さが、今度はそれが「狭い」という感覚を生んでしまったり、お客さんとしてその空間に入るのと、実際に当事者の気分でその空間のことを考えるのと、立場が違うと、ずいぶん違った風景が見えて、今すんでいる普通のマンション、マッチ箱みたいに四角四面で、平凡な、どこにでもある空間にも、そうでなくてはいけない理由があるんだな、と腑に落ちた。

きれいすぎる提案には罠がある

構造的には理想であるはずのフラードームが、普段使いの住宅としては、必ずしも理想ではなかったように、今回の災厄みたいに、まっさらなところからの復興を考える際には、画期的に過ぎる提案が採択されると、結局誰も幸せにならないような気がする。

従来からの町のありかたにはもちろん問題はあって、だからこそ犠牲者も出たのだろうけれど、今回に限らずもっと昔から、地震津波はその地域を何度も襲って、恐らくはその都度町は大きな被害を受けて、それでも同じような町が作られて、同じような被害が繰り返された。そうした営為は、そこに住む人が「無知だから」そうなったわけではなくて、災害に対して無力な、平凡な町のありかたにも、そうでなくてはいけない必然があったからなのだと思う。

大規模な被害は起きて、問題点は明らかだから、それを指摘するのは簡単ではあるけれど、こういうときだからこそ、従来の町が、どうしてそういう構造でなくてはいけなかったのか、それをきちんと検証してほしい。

これからの復興をどうしていくべきなのか、「委員会」の席ではたぶん、各界の重鎮が、それぞれに画期的な提案をぶつけ合うのだろうけれど、論争の戦術として、「きれいすぎる理屈を実世界に当てはめて、整合が取れない部分は相手の不勉強と断じる」やりかたを禁じ手にすべきだと思う。会議の席で提出される画期的な提案は、恐らくは誰が見てもそれなりに画期的なものばかりだから、こうしたやりかたを許してしまうと、最後は声が大きな人が勝って、敗者はみんな、そこで今すんでいる人も含めて「不勉強」を叩かれることになる。

「勝った」提案がどれだけ画期的であって、どれだけ崇高な理念に基づいていたのだとしても、それを受け入れるのに「勉強」が必要ならば、それはたいてい間違いで、たとえ骨格となる理念がすばらしくても、実生活で運用していくのが難しいのなら、住みにくいものになってしまう。

すごいプランを考えようとがんばると、殺伐とした空気と、使いにくい「画期的な」成果物とが生み出される。切実に何かが求められている今だからこそ、むしろ「無難で陳腐でつまらないものを作ろう」という目標を掲げて、「普通の人にとっての普通とは何か」というテーマを、徹底的に詰めてほしいなと思う。