評論について

単なる感想文と、評論とを隔てているものは、「トレードオフの可視化」の有無であって、分野の文理を問わず、評論を名乗る文章を書く人ならば、まずはこれをやってほしいなと思う。

軽量化のジレンマ

大昔、日野自動車がトラックの軽量化とコストカットを目指したモデルチェンジを行った際には、設計者は「シリンダーを減らす」という決断を行ったのだという。当時のエンジンは、伝統的に直列6気筒を採用していて、この形式は振動から見ると理想的な配列だったから、「直列5気筒の配列を採用する」という案は、当初ずいぶん議論が盛り上がったのだと。

軽量化の手段なら、たとえばもっと「ゼロ戦」的なやりかた、あらゆるパーツの配列はそのままに、個々の部品を極限まで肉抜きするような、負担を生産現場にしわ寄せするようなやりかたも考えられただろうけれど、直列5気筒という形式を採用した結果として、エンジン単体の振動はたしかに増したのだけれど、振動の中心点がうまい具合にずれて、排気系とエンジンとを接続すると振動のコントロールが容易になって、最終的に、軽量化とコストカット、振動の低減といった目標が、上手に達成できたのだという。

これは結果として大成功に終わったわけだけれど、こういう事例を「設計者の大胆な決断によって軽量化とコストカットを達成した」と書いてしまうと、それはどれだけほめても、単なる感想文になってしまう。

こういう状況を「評論」するのなら、それを描く人には、その人なりのエンジニアリングプランみたいなものを見せてほしいなと思う。同じ状況に自分が置かれたとして、軽量化の手法には他にどんなやりかたが考えられるのか。それぞれの利点と欠点は何なのか。設計者はどうしてこの手法を選択して、自分ならばどういう提案を行ったのか。実際に成功した、あるいは失敗したプロダクトを前に、決断というものは、どういう状況においてなされるもので、それはどういうジレンマを解決しうる、あるいは生み出しうるのか、そうした表現は、きっと分野を超えて役に立つ。

うまい設計と正しい設計

ある設計に基づいたプロダクトがあって、それが成功していようが、失敗していようが、評論をそうした結果から逆算するのは卑怯だと思う。

評論を行う人は、同じ状況にあって、自分のプランを頭の中で描いてみせるべきで、それができる前提においては、プロダクトは「エンジニアの正義」という視点で論じてほしい。

畑村洋太郎の 「実際の設計」というシリーズホンには、「イモ設計」という言葉が出てくる。結果としてうまい具合になっていても、設計者の正義に照らして「よくない設計」というものがあるのだと。

イモ設計というのは、たとえば一つの部品にいくつもの機能を兼ねさせることだとか、パッキンを気密でなしにクッションとして、本来の目的とは外れた使いかたをさせる使いかたであって、それを行うことで、たとえ「軽量化と低コストの両立」といった目標が達成できたとしても、今度は将来の機能拡張にその設計が対応できないとか、別会社のパーツで機械を修理するときに問題が発生するとか、「正義でない」設計は、どこかで別の問題を生んでしまうのだという。

正義の記述について

あらゆる分野に、「エンジニアの正義」に相当する考えかたがあるのだと思う。設計者に降りかかる要求と、実際に作れるものとのトレードオフを乗り越えたエンジニアは、今度はたぶん、成果を成し遂げたその設計が、果たしてエンジニアの正義に照らして正しいものなのか、自身に問いかけることになる。

もちろん世の中は結果最優先であって、大半の成功事例は「不正義だけれど優れた設計」によって達成される。「世の中の大部分が不正義でまわっている」からこそ、評論というものは必要であって、評論をする人は、り成果でなく、正義の視点からそれを評価してほしい。プロダクトが成し遂げた結果だけを見て、それをほめたり、叩いたりする。どれだけ美麗な文章でそれを書いても、それは単なる感想文であって、エンジニアの思いは見えてこない。

兼坂弘のエンジン評論には、どうしてこの場所のボルトはこの太さでないといけないのか、どうして結束バンドの本数は4本であって、5本ではいけないのか、そういう記述がたくさんあったように思う。読んだのは子供の頃で、本はもう、絶版になってしまったけれど。本田勝一の「日本語の作文技術」という本には、「全ての読点、句点には、そこにそれが置かれる理由が説明できる」のだ、なんて書かれていた。設計の考えかたは、恐らくはあらゆる分野に共通するものであって、作家が本を書く、ああいう営為もまた「設計」であって、「エンジニアの正義」に相当する何かが、あの業界にもあるのではないかと思う。

評論というものは本来、正義を記述するメディアなのだと思う。

正義というものは、それをそのまま言葉にすると、陳腐で空疎でありきたりなものになってしまうから、読者に伝えるためには手続きがいる。あるプロダクトを通じて、設計者が対峙していたであろうジレンマを可視化して、そのプロダクトがどうしてこういうありかたになったのか、設計者の思いや哲学を逆算してみせる。その上で、そのプロダクトはエンジニアの正義に照らしてどうなのか、それを評論してみせることで、読者には正義を想像する余地が生まれる。

そういうのを読みたいなと思う。