体質改善は怪我に効かない

「根本的な体質改善」はたしかに大事かもしれないけれど、たとえば怪我をしてまだ血が出ている状況においては、「絆創膏」のほうが役に立つ。

問題の解決には、状況に応じて選択されるべきやりかたは異なっていて、「根本的」な解決というものは、もっと元気になってからでないと意味がない。

変革のありかたについて。

町の風景には意味がある

災害復興について、「委員会」みたいなものが作られて、議論が続いている。こういうところで提案された「画期的な解決」は、たいていの場合なにか別の問題を生み出して、個人的にはなるべく無難な提案に落ち着くといいな、と思う。

町の風景には、そうなった理由というものが必ずあって、変化を求める特別な需要もないときに、たとえば何かの事故みたいなものをきっかけに、一気にそれを変えようとするのは間違っている。どれだけ高邁な思想に基づいていたとしても、根本的な変革というものは、必ずどこかに無理が来る。

有事に際して、何かきれいな理念に基づいて行われた変革というものはろくな結果を生まない。変革というのはたぶん、平時にあって、道徳でなく、経済的な理由で行われるべきなのだと思う。郊外にショッピングセンターが作られると、田舎の町は半年ぐらいで一変する。お爺ちゃんたちが威張ってた中心街は廃墟になって、若い人は新しい場所に移動する。中央商店街はシャッター外になって、そこにしがみつく人たちは困るだろうけれど、変化から利益を得る人はもっと多い。こういう風景の変化は、町のありかたとして間違っていない。

健康保険組合のこと

根本的な、決定的な解決というものはたいていどこかに無理があって、世の中の問題は、今あるものをもっと複雑に、もっと非効率的にすることで、暫定的に解決されることのほうがずっと多い。根本的な変革に比べれば、そうしたやりかたは無様で惨めで非効率だけれど、場当たり的なやりかたは、根本的にやるよりも、もしかしたらいい結果につながりやすい。

医療の業界は、電力と同じくほぼ独占的な商売であって、消費者たる患者さんの側からは、自分たちが何に対してお金を支払っているのかが見えにくい。業界の構造として、両者には似ているところが多いように思うのだけれど、医療は電力ほどには莫大な権力を持っていないし、大きすぎてつぶせない組織なんて存在しない。

医療の業界には「健康保険組合」があって、彼らが間に入ることで、自分たち医療従事者が、患者さんから「ボる」のを防いでいる。

自分たちの側からすれば、健康保険組合というのは、医学のことなんて知りもしない、現場を見ないで数字だけ削る、どうしようもなく非現実的で理不尽な、非効率な集団だけれど、現場から見た理不尽さは、裏を返せば違った価値軸で同じ業態を評価できているという証拠でもある。健康保険組合の制度は非効率的だけれど、そうした効率の悪さが業界を覆っているおかげで、日本の医療はグダグダだと言われながらも、そこそこの品質と、そこそこの価格を維持できている。

健康保険組合が「効率的に」、「現場の意を汲んだ」判断を連発するようになったら、もしかしたら総医療費は1 割ぐらい上がる。それに伴う品質は、たぶん1 割の向上は期待できない。技術を知った人間が回す現場に、杓子定規な、現場を知りもしない人たちが数字だけ追っかけるような事務集団を業界の上に被せるやりかたというものは、非効率なことこの上ないけれど、けっこうちゃんと機能する。

上手くいかなかった何かは、よりシンプルに、根本的に解決を試みるのではなく、むしろもっと複雑に、効率を悪く、小手先の解決を試みることで、結果として上手く回ることがある。

業務形態を従来通りにするのなら、競争原理を業界に導入しないのならば、電力の業界にもまた、「健康保険組合」に相当する非効率な組織を被せることで、一定の抑止力が得られるのではないかと思う。

必然と選択枝

何かの変革を行う際には、それを新しい選択枝として提案するやりかたと、必ずそうすべき必然として提案するやりかたとがあって、力を入れるべき場所が異なってくる。

たとえば医療ならば、 近い将来、Google 先生あたりがもっとすばらしい医療業態を作り出すかもしれない。平時にそういうものを構想して、消費者がそちらを選択して、結果として健康保険組合制度が崩壊するのなら、それは問題解決の手段として正解なのだと思う。

ところがGoogle 先生が政府に働きかけて、「それはすばらしいからそうしよう」をやってしまうと、たとえ同じ提案がなされても、システムの移行には遙かに多くの時間とコストがかかってしまう。

集団レベルでの選択というものは、切り捨てるのではなく、風化させるほうが安価につく。制度を作って強制的な移行を行うよりも、レガシーな部分を残すやりかたのほうが、望んだ結果にたどり着くまでの時間を短くできる。

人は変革を嫌うし、決断を行うときには、似たような境遇の誰かを捜す。

必然として提案された変革は、全ての人に課せられた義務だから、周りの人たちはみんな「停止」を選択する。自ら動く理由がないから、外から押されない限り動かない。より優れた選択枝というものは、自らの手で発見してつかむものだから、押す力は少なくて済む。選択する人と、停止する人と、周囲のありかたが様々な状況で、昔にしがみつく人がいよいよ少数になると、今度は彼らが、「乗り遅れたくない」という多数者を押す原動力になる。

必然で人を動かそうと思ったならば、だから手取り足取り、「すごいエネルギーをそこに投入します。抵抗は無意味です」とトップが宣言しないといけないし、選択枝で人を動かそうと思ったら、その選択枝が「お得な」ものであることを、分かりやすい言葉で説明しないといけない。このあたりを中途半端にやると、「必然」方式においては文句ばかりを増やしてしまうし、「選択」方式ならば、たとえば町の変革を目指して作ったショッピングセンターに魅力がなかったら、そこは潰れて更地になって、町は昔の風景を引き継いでいく。

状況に応じて選択されるべき変革のありかたと、それを提案するための方法は異なっていて、状況が「こう」と決まれば、正解はある程度絞られる。今行われている提案は根本的に過ぎ、必然的に過ぎ、その割に、押す力が足りていないような気がする。