悪役の深度について

与謝野大臣が記者会見の席で、「原発を推進してきた立場として今回の事故に謝罪をするつもりはないか」という記者の質問に対し、「ないです」と述べた

この人は以前にも、積極的に増税を、と主張していた。恐らくは与謝野大臣は、あえて悪役を買って出ることで、世の中を「よく」してやろうという覚悟を決めているのだろうけれど、大臣の考える悪役は、なんというか、浅すぎるような気がする。悪党の存在はヒーローの活躍に彩りを添えて、物語を強力に引っ張る力を生むけれど、浅い悪役では、物語を「よく」することなんてできっこない。

正しさと人気は違う

「正しさ」と「人気」というものはしばしば方向が異なっていて、誰かが「正しい」ことを言わないと、世の中が「正しい」方向に進まない。

ところが「正しい」ことというのはしばしば耳に痛いから、それを口に出すと人気が落ちる。人気を失った政治家は、生命を失ったことに等しいものだから、必要なときに、正しいけれど耳に痛い言葉を述べるのは難しい。

与謝野大臣はたぶん、引退間近な自分こそ、「正しい」言葉を述べる、「悪役」を担うにふさわしいという自己認識を持っているのだと思う。だからこそ、最悪のタイミングに、世の中に冷水をぶちまけるような発言を行って、悪評を自らが引き受ける代わり、世の中を「正しく」導こうとしている。

良薬は苦いとは限らない

苦い薬であっても、それが効くなら飲まないといけないけれど、苦い薬が常に効くのかと言えば、もちろんそんなことはない。

災厄まっただ中の今にあって「謝罪をするつもりはありません」と返答してみたり、不景気をどう乗り切るか、と誰もが頭を抱える中で「増税しましょう」と発言してみたり、こうした言葉はたしかに「苦い」のだけれど、苦すぎて、それをつぶやく「悪役」が、なんだかとても浅いものに思える。

浅い悪役は、昔の変身ヒーロー番組に出てくるものであって、誰が悪役で、悪役は誰を引き立たせたいのか、子供にだってすぐ分かる。浅くて目立つ絶対悪は、当然のようにヒーローに負けるのだけれど、ヒーローもまた絶対善であることが求められるから、ヒーロー役を任じられた側は妥協が許されず、「浅い」ヒーローしか演じられない。何もかもが浅いから、観客もまた、傍観者でしかいられない。

深い悪役は、一見すると「いい人」だから、観客が発見しないと「悪い」場所が見つからない。深い悪役の活躍する物語において、観客は参加者に、発見者に、もしかしたらヒーローになることすらできる。問題解決に参加できる人が多いから、深い悪役は、脚本家が想定した以上の「正しい」解答にたどり着けるかもしれない。

与謝野大臣が演じる悪役発言は浅すぎて、あれは良くないような気がする。

「俺を信じれば大丈夫」という絶対善が全く機能していない現状で、国民に傍観者であることを強いる発言は、何も生み出さない。

原発問題の反省にしたところで、よしんば原発の技術が完璧であって、今回の災厄について、技術的には一切反省するところがな方のだとしても、「悪役」ならば最低限度、「実は完璧な技術なのに国民を驚かせてしまったこと」を謝罪することはできるはずだし、そうした発言をしたほうが、悪役としてよほど深い、いい結果につながる振る舞いができるのではないかと思う。