不運も実力のうち

それをどうやって身につければいいのかは分からないけれど、「運のよさ」というものは、 やはり上に立つ人が備えるべき能力の一つとして考慮に入れたほうが、組織がより健全になるのだと思う。

努力が成果になる

どれだけ素晴らしい経歴の持ち主だろうと、判断の成否を完璧に予測することは不可能で、 準備を完璧に行ったところで、失敗をゼロにすることはできない。

そうしたケースはたいてい「運が悪かった」と総括されて、やるべきことをきっちりとやっていれば、トップの責任は問われないのかもしれないけれど、 「運のよさ」というものを評価軸から排除してしまうと、努力の方向がいびつになるような気がする。

「運の悪い切れ者」が排除されない組織においては、結果がどうであれ、その人の人となりや経歴、 判断のプロセスに努力が認められれば、それが成功と認定されてしまう。そんな文化で組織を回すと、 結果は二の次、プロセスをいかに正しく見せるかが、個人の成功を左右するようになる。

運勢というあやふやなものを排除するやりかたは、考えかたとしては健全なのだけれど、 それをやるとなんとなく、「運の悪い」人ばかりが上の方に居座って、組織はいつか崩壊してしまうのだと思う。

不運も実力

第二次世界大戦中の米国では、将軍は、「運が悪いこと」も罪悪として問われたのだという。 どれだけ優れた指揮官であっても、「運悪く」戦闘に負けたときには責を問われた。

軍隊は、必ずしも「エリート」が指揮するわけではなくて、もっと出世してもいいはずだった人が「運悪く」出世できなかったりといったケースもあったけれど、結果として米軍は成功した。

物量が違いすぎるから比較にならないけれど、旧日本軍はどちらかというと、「見えるもの」をしっかりと評価する組織を作って、 軍の上層部は「切れ者のエリート」が固めたけれど、米軍は「運」という目に見えない何かを評価して、人物の判断に援用して、 結果として戦争に勝った。

目をそらしても責任は残る

評価を受ける側からすれば、運勢という、観察できないものを評価の対象にされるのは不公平に思えるかもしれないけれど、 「あるけれど見えない」ものを「ないこと」にしたところで、結果に対する責任というものは「ないこと」にはできない。

「運悪く失敗した」ケースにあって、「努力したトップ」が責任を問われることはなくても、あるプロジェクトが失敗したという事実は変わらない。

見えるものを徹底的に評価するやりかたは、経歴のしっかりした人に、失敗を許さない。徹底的に頑張って、鍛えて、 準備した結果が「失敗」であったときには、「運の悪かったトップ」以外の責任が、今度は徹底的に追及されることになる。

正しい経歴を備えた将軍は、必ず正しい判断を下すから、部下が「運悪く」将軍の期待を裏切らない限り、物事は常に成功する。 こういう前提で「責任者捜し」が行われると、今度は誰もが徹底的に「判断」から逃げまわるようになる。

目に見える努力だけを評価しながら組織を回すと、結果として「判断しない」人だけが生き残る。 部下に「空気を読んで」もらう、上司は絶対に自分の判断を示さない、奇妙な文化が組織を支配して、 判断の機械は失われていく。

見えないものを評価する

米国流の、「運の悪い将軍は左旋」というルールは理不尽だけれど、「運」という、今はまだ目に見えないけれど、 厳として存在する何かを考慮の対象に含めるからこそ、「判断」できない将軍は、そもそも評価の入り口に立つこともできなくなってしまう。

努力して、素晴らしい経歴を積まない限り、そもそも人物評価の入り口にすら立てないけれど、 「運」を前にすれば、経歴の正しさだってパラメーターの一つに過ぎないから、「結果」を出していかないかぎり、 「優秀な人である」という評価には意味がなくなってしまう。

見えないものを考慮の対象に入れることで、結果として「判断しない人」が生き残る、いびつな文化が排除される。

世の中にはたしかに、「運のいい人」と「運が悪い人」というものがあって、「運がいい人」というのは、恐らくは何か、 運の悪い人にはない生活習慣を無意識に実践していて、それが成功につながっていて、今はまだ、その何かが明らかになっていないのだと思う。

「運試し」は理不尽だけれど、上に立つ人であればあるほど、「運のよさ」というものはしっかりと考慮に入れる必要があって、 それは官僚であっても政治家であっても、「運が悪い人」は、上に居座ってはいけないのだと思う。