手の抜きかたを考える

戦争中に大量に作られた「戦時標準船」というものに関するお話。

戦争を継続するには莫大な物資が必要で、輸送に使う船は、戦争が始まるとすぐに足りなくなるから、 戦争中には「戦時標準船」という、大量生産品の船が大量に造られて、日米ではその考えかたが異なっていた。

日本は手を抜けなかった

日本の戦時標準船は、最初の頃は高品質すぎて、全然「手抜き」になっていなかったのだという。

戦時だから、たしかに見た目は粗末になったけれど、船体は3次元曲面で描かれていて、 中身は従来の高品質な船舶そのままだったから、大量生産を目指して「手抜き」を心がけたはずなのに、工期の短縮は達成できなかった。

戦争の後半、いよいよ物資が足りなくなって、改めて「手抜き」を目指して図面が引かれた船には、今度は安全装置が備わっていなかった。

船には欠かせない安全装置である「二重底」は省かれていたし、性能が低くて安全性の低い船舶を、 それでも軍は従来どおりに運用したものだから、被害は莫大なものだったらしい。

米国のリバティー船

米国の戦時標準船であった「リバティー船」は、粗製濫造された無骨な船であったわりに、船に必要な基本的な部分は従来どおりで、二重底も備わっていた。 その代わり、リバティー船のエンジンは時代後れで、安価な代わり、速度は遅かった。

米国は、鈍重な船舶を運用するに当たって、護送船団のありかたを改めたのだという。 船は遅いから、空母を必ず護衛に付けて、損失を最小にするよう心がけたのだと。

量の運用は難しい

質よりも量が求められるような状況に対峙して、何かの「手抜き」を代償に得られた「量」を運用するのは難しい。

「手抜き」自体、大胆にそれを行うのは案外難しいし、手を抜いて、低い性能の代替品を大量に作ったところで、 それを運用する側に、量を前提とした思想がなかったら、品質の低さがそのまま致命的な欠点となってしまう。

性能の低さを、運用でなく、「現場の頑張り」でだいしょうすると、悲惨なことになる。 その代替品がそもそも想定していない性能を、「頑張って」達成することを求められるし、 頑張って、達成できるわけもないのに、全ては「現場の奮起が足りない」せいにされる。

「手抜き」の企画は、まずは組織の「上」にいる人たちが、その性能を前提とした運用方法を見直さない限り、必ず失敗してしまう。

そもそも「手抜きができない」ことだとか、ようやく作った低い性能の代替品を、今までどおりのやりかたでしか運用できなくて、 結果として損失ばかり増えてしまうことだとか、戦時標準船も、半導体も、問題の根っこがよく似ている。

問いを立てて手抜きを運用する

「手を抜こう」なんて宣言したところで、やっぱりそれは上手くいかないし、低い性能の何かが生まれて、 「性能は低いけれど精神力でカバーせよ」なんて指揮された現場は、「頑張りが足りない」結果として自滅する。

「どうすれば手を抜けるのか?」という問いの立てかたからは、建設的な発想は生まれてこない。

量を運用しようと思ったら、現場を指揮する人に、まずは「その人にとって譲れない要素」を考えて、それを限界まで絞り込んでもらってから、 今度はそこから、「ならばそれが欠けているものを与えられたとして、それをどう運用するのか?」と問うことで、もう少しましな答えが出てくるのではないかと思う。

それが戦時標準船ならば、たとえば「速度」や「最大積載量」、「防御力」あたりが譲れない要素であって、 今度は「遅い船」や「荷物が積めない船」、「簡単に沈む船」をそれぞれ前提として、どういう運用を行えば、 それで目的を達成できるのかを発想してもらえれば、「それが前提の運用」というものが、もう少しだけ前向きに考えられる。

そんな問いに対して「精神力でカバーする」という答えしか返せない人は、上に立ってはいけないのだと思う。