マニュアル診療の楽しさ

ガチガチの行動規範に縛られた医療現場は、それでもやっぱり楽しい、はず。

「楽しさ」というパラメーターは、要するに「特別さ」の度合い。 振る舞いが自由であることそれ自体は、「特別である」ことを保証しないし、 振る舞いが「量産型」に規定されても、 特別な人は、やっぱり特別な存在であり続けるから。

量産品を使うヒーローのこと

主人公が特別に作られた道具を武器に活躍する物語には、どうも共感できない。

読者の共感と、物語の盛り上がりを両立することは難しくて、 主人公が最初から超人だったら、読者の共感なんて得られないし、 主人公が最初から最後までダメ人間なら、物語が盛り上がらない。

超人的な努力をする主人公は暑苦しくて共感できない。かといって、 ちょっとした努力で超人化する「普通の人」になんて、誰もリアルを感じない。

普通の人間だった主人公が、何か特別な機械とか、その人にしか扱えない生物との出会いを通じて、 「特別な人間」となって活躍する物語は、だからこそ、妥協点として物語の定番になったのだろうけれど、 「特別さ」というパラメーターを、機械の性能であったり、相棒となった生き物の能力として 表現するやりかたは、やっぱり安直にすぎると思う。

大人が読むSF 、読者の共感なんて最初から想定しない「サイバーパンク」の世界では、 主人公は「量産品」を使う。

ニューロマンサー」、「攻殻機動隊」、あるいはイーガンの遠未来SF にしても、 物語で描写される機械はみんな量産品。主人公みたいな特別な人達は、 自らの身体を機械化したり、脳内にソフトウェアを組み込んだりするけれど、 それはみんな量産品で、お金さえ払えば、その世界では誰にでも手に入るもの。

サイバーパンク世界では、主人公の「特別さ」は、 状況に応じた汎用品の選択だったり、 その人の行動とか、考えかたそれ自体として表現される。

攻殻機動隊」の主人公なんかは、物語の終盤では脳髄だけになって、 最後には身体を手放して、単なるプログラムになってしまったけれど、 主人公を特別な存在にしていたのは、その人の思考であったから、 全てを失ってしまってもなお、主人公は主人公として特別な存在でありつづけた。

「特別さ」というパラメーターは、たぶん平均からの隔たりとして表現しないと、 説得力をもたない。何かのパラメーターを先鋭化させるほどに、 その人の能力はバランスを欠いていくし、何か飛び抜けた能力を得る代償は、 その人の弱点として、どこかで贖われないといけない。

「特別さ」を、何か特別な機械の能力として表現するやりかたは、 主人公が失うものが何もないから、説得力を持ち得ない。

それでもやっぱりプロトタイプが好き

削り出し。冷間鍛造。実験室グレード。 物語世界限定ならば、プロトタイプ大好き。

自動車の量産試作品なんて、あらゆる部品が削り出しの一品物。 天文学的なコストをかけて、技術者の愛情を一身に受けて誕生した、特別な存在。

特別だけれど、あくまで試作品。壊して限界を探るために作られたもの。 海の中とか砂漠とか、連れて行かれるのは苛酷な場所ばかり。 これから生まれる兄弟の中で、もっとも可愛がられて、もっとも苛酷な生を全うして、 最後は完全に分解される。プロトタイプは、そんな哀しさを背負ってる。

プロトタイプはお金かかってるくせにアンバランスで、信頼性が低くて、 「試作品を壊した成果」を取り入れた量産品にはかなわない。

アンバランスな、総合性能では量産品にかなわない試作品が、 そのアンバランスさを武器として活用できるだけの能力を持った伴侶を得て、 性能の高い量産品に互角の戦いを演じるような物語があったなら、 きっと強く共感できるんだろうなと思う。

もちろんそんな試作品は、性能的には不十分で、結局は量産品にはかなわないんだけれど、 そこは強度だけやたらと高い鍛造部品とか、自分を作ってくれた技術者の愛情なんかを糧に 根性見せて、最後はやっぱり、バランス取れた量産品に打ち勝つ。

ターミネーター2」 みたいな、「根性を得た機械」の物語はどうしてこんなに面白いのか、 いつも不思議に思う。プロトタイプという存在を、そんな弱くて根性背負った存在として 描く物語があったら、きっと面白いと思う。

マニュアル医療のこと

診療行為の全てが「手順書」に記述されたところで、医療の楽しさみたいなものはなくならない。

何もないところから、診療手順をスクラッチする楽しさはなくなるかもしれないけれど、 今度は逆に、自分の「すごさ」をみんなと比較して、共有できる楽しさが始まるはず。

検査だらけの手順書を誰かが記述して、とりあえずそれを共有しても、意見は医者の数だけ存在する。

学会紛糾して、そのうちプロジェクトは「フォーク」して、たとえば東大版と京大版とか、 いくつものプロジェクトに分岐した手順書は、今度は統計的な結果を通じて、お互いのすごさを 比べあうことになる。

勤務医と開業医の争いというものもまた、手順の共有が、 能力が収入に直結する、公平なルールを作り出す。

マニュアル医療は、主訴と治療との中間部分に思考が発生しないから、 自分の施設だけでは「治療」に帰着できない患者さんは、より重装備の施設に紹介せざるを得ない。 もちろんこの時代、治療の対価は治療を行った施設が総取りすることになる。

能力が無い医師は、「深追い」しすぎて自施設では患者さんを診療できなくなって、 それまでにかかったコストもろとも、患者さんを大規模施設へと手放すことになる。 開業医にだってチャンスはある。診断能力が高いクリニックは、患者さんを見た瞬間に 「その先」が読めるから、コストが生まれない患者さんはさっさと大病院に紹介して、 軽装備のまま「おいしいとこ取り」ができるはず。

記述された診療手順が、たとえばフィリピンとか中国とか、日本ほどには医療設備が整っていない国で アレンジされると、もっと面白いことになる。

検査手順から「機械」をどこまで外しても大丈夫なのか、 コストを減らすことによって、安全率がどこまで下がるのか。「人の命が安い国」だからこそ、 その結果はとても役に立つはず。おそらく結果はフィードバックされて、 逆輸入された「軽量版」の診療手順書は、今度はきっと、軽装備のクリニックに支持されて、 手順書はまた進化する。

このへんはきっと、UNIXを進化させてきた人達と同じ物語。 あれを作り出した人とか、様々な改良を加えてきた人達は、 いろんな制限がある中で、それでもきっと楽しかったはず。

日本人はトランジスタを作れなかったけれど、トランジスタラジオを作った。 部品を作るのは苦手だけれど、コンポーネントを作るのは、世界の誰よりも得意。

日本の医師なんて、どうせ西洋人の書いた論文以外は信じないんだから、 日本発の臨床研究とか無駄なことやめて、さっさとコンポーネントを作るほうに 力を注いでほしいなと思う。

きっとすごく面白いことがおきるはず。