啓蒙的な、サヨク的な

考えたことを発信する行為を続けてきて、いろんな反響をいただいたり、 参考になったり、勉強になったりするほかのサイトをのぞいたり。

「上から目線」、あるいは、サヨク的な何か。

あなたが間違っていることは知っている。自分は勉強してるから。 答えは教えてあげない。まずは仲間になって、勉強して下さい

誠意がねじれて、いつの間にやら目線に羽生えて。昔は同じ地平で もの語ってた人が、気がついたら空の上から見おろされてたりして。

「何とかしなきゃ」という思いが伝わってきて、読んでてすごく 共感できたサイトなんかが、3年もするとなんだか常連のサロン。 「今度はこんな展開を考えてるんですよ」「あぁそれは鋭いですねぇ○○さん」 なんて会話がコメント欄で交わされるようになったら、それはもう 和やかな雰囲気でも何でも無くて。

自分なんかよりもずっと頭よくて、外から見られる自分というものに 自覚的な人。増長するとか、えらぶるとか、そんなことは全然ないのに、 目線は自然と上に上がって、サヨクの悪いところというか、腐臭というか。

なんだかそんなの漂ってきて。

人糞はジャスミンの香り

人糞臭の原因となる香り成分「スカトール」は、薄めて使うとジャスミンの香り。

恐らくきっかけになるのは、管理人の誠意と、コメント欄の盛り上がり。

いくらいい情報を発信したって、盛り上がらなければ広がらないし、 ほめられなければ次はない。発信する人だけでは片手落ちで、 批評をくれる人、ほめてくれる人、そういう人達はすごく大切。

管理人の文章が広まって、コメント欄が盛り上がって。

いい雰囲気というのは花の香りのように広がって、もっと多くの人を引き寄せる。良循環。 ところが恐らく、このあたりのどこかに落とし穴があって、人が密集し過ぎてしまって、 「花の香り」であったはずの香り成分は人糞臭となって漂いはじめる。

濃くなりすぎた花の香りは、初めてきた人にとっては悪臭として感覚される。

人糞臭は花の香りの延長線上にある。最初からそこで発信を続けてきた 管理人であったり、その周囲でサイトを盛り上げてきた常連さんであったりは、 もしかしたら悪臭の中でも花の香りを感覚しているのかもしれない。

困窮極まった若手労働者の人が労働組合の門を叩くと、いきなり説教をされることがあるらしい。

今の若者は勉強が足りないからそんな目にあうとか、今から労働運動を 学ばないと、同じ事のくり返しだとか。

救いの手がほしくて門を叩いて、説教されて、勉強を強制されて。 「サヨクの上から目線」というのは今に始まったものでは無いけれど、 あれはもしかして、団体を率いている当の本人達にとっては昔の誠意の延長で、 「何とかしたい」「手を差し伸べたい」という香り成分が、 時間の経過と共に濃くなりすぎて、気がついたら腐臭を放って、 本人達はそれに気がついていないだけなのかもしれない。

コメント欄との距離感

誰でも知っているようなサイトを運営している人というのは、 コメント欄の使いかたが独特。

そもそもコメント欄を設置していない人。コメントを書いても絶対に返信をしない人。 コメント欄を荒れるに任せていて、それが味になっている人。 コメント欄がサイトの主役になっているようなところであれば、 管理人のコメント管理能力が卓越していて、コメント欄の空気がいつも同じ「色」をしていたり。

いずれにしても、「コメント欄を介したコミュニケーション」というものは、 重視されていないか、みんないろいろな形で距離をおいていて、コメント欄から 作者に流れる何かは制限されているように見える。

有名なサイトを運営している人達というのは、たいていの場合ネット歴が長くて、 たぶん一度は自分のサイトを腐らせてしまったり、あるいはどこかお気に入りだった サイトが腐っていくのを見たことがあったり。

そんな経験をみんなしているからこそ、コメント欄との距離感というものに、 みんなそれぞれに自覚的なんだと思う。

知恵無き統治者は異言を語らねばならない

世の中にはたぶん、「知恵を持った人」と「知識を持った人」とがいて、 知識は勉強すれば身につくけれど、知恵というものを持つ人はごくごく少数で、 ネット世間を見渡して一人か二人、いるのかどうか。

人が人を統治する限界。

知恵無き大多数が問題にぶつかって、自分で勉強して知識を蓄えて。 話題を広げて共有したくてサイトを作って、そこに多くの人が集まって。

確率論的に、集まるのは「知識を持った人」。知識の量は定量可能なものだから、 そこに集まる人は序列から逃れられなくて、たいていの場合、その順位は変わらない。 誰だって負けるのはいやだから、序列ルールが支配するコミュニティというのは、 どうしても「上位」の数が一定ラインを越えたあたりで成長を止めて、熱的死を迎えてしまう。

「知恵ある人」というのは希少種で、存在するだけで周りから異物と認識されるような人。

あるいはその人の言葉は「すごさ」は伝わってもイメージが伝わらなかったり、 イメージだけが突っ走るんだけれど、何をしていいのか分からなかったり。 なんだかすごそうだから、そこには多くの人が集まるけれど、その人に何を語っていいのやら 分からないから、コメント欄を開放しても、最初からコミュニケーションが成立しない。 そこは情報のやり取りを行う場所ではあっても、情動は語られないか、伝わらない。

大昔の部族社会、部族を束ねる祈祷師は、獣の面やら、神様の扮装やらを身にまとって、 部族の上に「異物」として君臨した。神の遣いとなった祈祷師は、族長の意図を 異言としてみんなに伝えて、部族の各人は、各人の立場なりにそれを解釈して、 行動をおこした。

祭りごとと政ごとは、古来は不可分の関係。上からの論理でみんなを束ねる政治の力と、 異界から働きかけて、各人の立場からの自覚を促す神事の力と。

人が人を統治する限界を越えて、もっと多くの人に考えていることを伝えようと思ったならば、 異物であることに自覚的であること、分かりやすい言葉を専門知識で固めて伝えるのではなくて、 いろんな人なりに解釈できる物語、「異言」として伝える努力をしないといけない。

若者は旅の呪術者と出会う。「獣の面をあげよう。5つだけ、真実を予言することができる」 獣の面を纏った男は村に帰り、予言を行う。「あの男が言った場所を掘ったら井戸が出た」 「あの男は雨を呼んでくれた」。「あなたは神の使いだ」 異型の男は村の中心に祭られる。獣の面を通した声はくぐもっていたから、男には耳のいい部下がついて、男の声をみんなに伝える。予言は成就し、村は栄え、男は栄誉と財産とを手に入れる 春になって、男の面はすでに外れなくなっていたけれど、栄誉が手に入ったから、男は気にしなかった。男の予言はもう当たらなかったけれど、部下達は大きくなった村の政治を上手に取り仕切ったから、部下達は気にしなかった 全てが上手く回り続けたその年の夏。革の面は乾いて、男は首を絞められて死ぬ。それでも男はそこに座っていて、村は上手に回っていたから、みんなそのことを気にしなかった。  

男が獣を全うすれば、男は死ぬし、男の意思はあるいは伝わらないけれど、 村は栄えてみんな喜ぶ。男が獣の面を破って人間に戻れば、 ただの若者が統治する村は嫉妬に割れて、たぶん滅んでしまうだろう。

まとめ

要するに「医療の崩壊」とか、「国民の皆さんはもっと自覚を」みたいな訴えをしている 多くの医師サイトからなんとなく感じたこと。

「まずは亡くなったご家族の冥福を…」なんて軽薄な前置きしてから、 そもそも素人は現場が見えていないなんて文章重ねて。あれ読んで、 素人で、一体誰が共感するんだろうか?

Web 世間の中では、医師というのは「珍獣としての振る舞い」が求められる生き物。 それは決して「人」であってはいけなくて、力を持った獣であり、 普段は表で見ることのない、檻の中に入った珍獣であり。

珍獣の義務は咆哮することであって、構造問題を語るとか、 世間の自覚を促すとか、そんな「人の言葉」を語ってはいけない。

檻の中の珍獣が、見物客に世界平和語りだしたってみんな白けるように、 珍獣は珍獣らしく吼えつづけて、観客の人が、 その声から各々何かを感じて、自分の生活を振り返った中から、 何かを見つけだすようにならないといけない。

残念ながら、人は人によってしか説得することは不可能で、ネット世間では、 医師であるという属性は、すなわち人としての役割を最初から期待されていない から、「吼えること」を通じてでしか自己を表現できないし、吼えることを止めた珍獣は、 もはや動物園のごく潰しとしての存在価値しか示せない。

忙しさ。面白さ。理不尽な思い。当直明けの泥水みたいなコーヒーの味。 血のにおい。多発外傷の熱気。そんな「咆哮」を伝えないといけないのだと思う。

珍獣の咆哮聞いて、医師という仕事の面白さに引っ張られた誰かが、 医療をもっと理解したくなって、医師を取り巻いている現状に気がついて、 今度は人が、人の言葉で、人に向けて発信する。

すごく遠回りだし、たぶん手遅れなんだろうけれど、 Web で世論を動かす可能性なんてものがあるんだとするなら、 やっぱり今のやりかたの延長では限界だと思う。