安心を記述すること

ドッグフード、添加物の入っていない、安心して使えるようなものを いろいろ探しているんだけれど、なかなかいいものが見つからない。

子犬だし、そんなに量食べないからコストは度外視でいくにしても、 ドッグフードには安心に対する需要がそんなに無いからなのか、 どれも今一つ。

「安心」をうたいながら添加物たっぷりだったり、「安全」うたって人気集めて、 その実何がどう安全なのかの説明無かったり。

無添加」を売りにしている国産のフードが あって、そこが最近高級品を出した。

購入してみると、それはやたらときれいな色のフードで、 「無添加」を売りにしていたパッケージは一新されて、 「安心」「信頼」の文字は躍っても、「無添加」の文字は消えていた。

メーカーに問い合わせて見ると、添加を止めたはずの防腐剤は復活していて、 高級感を出すためなのか、発色剤も新たに採用されていて。

「今までのグレードには添加物は使っていません」なんて返事をいただいたけれど、 漠然とそのフードに抱いていた安心は霧散して、どうしていいのやら。

可能性と公算と

例えば「北○鮮が今度こそミサイルを発射するらしい」なんて情報があったとして。

  • あの国にはそれだけの技術があるとか、最近某国から有名な技術者を招聘したとか、 技術的な側面というのは「可能性」
  • 今は外交的に安定しているから発射する動機が無いとか、アメリカに援助打ち切る動きがあるから、 たしかに今発射する意味が出てくるとか、社会的な側面をも加味したものが「公算」

安全と安心。

安全というのは技術的に達成すべきもので、可能性で論じる概念。安心というのは公算。 技術が達成した「安全」を、今度は社会的な立場、あるいは心理的な立場から 査定して得られるた結果が「安心」。

安全を達成する技術ができて、それが正当な評価を受けて安心ができるというのは 理想だけれど、安全というのは、上を見はじめたら際限がなくて。

妥協できる安心というのは、「これなら安心」という公算と予算とがまずあって、 その中で安心を担保しうる妥当な安全率が決まり、それに必要な技術目標が決まる、 そんな流れで作られるはず。

予算の限られた実世界で安心を担保するには、結局のところ「安心とはなんなのか」を ユーザーが決定しないといけない。

論理は安心を記述できるのか

安心というのは、「論理が及ぶ範囲ではこれ以上は何もしないで大丈夫」みたいな、 論理の上位に位置する概念。

だから、「これで安心」というものを論理で考えようとすると無理がある。 論理で記述される対象が、その論理を超越することになってしまい、 安心の定義に矛盾を生じる。

安心というのは、こんな天井知らずの概念だからこそ、どこかで思考停止するポイントを作らないと、 論理が破綻する。

定義無しに「安心」を実現することはできない。

「安心なドッグフード」を定義無しに実現しようと思ったら、 工場に運び込まれる全ての材料をチェックしないといけないし、 製造者が違反をしないよう、誰かがつきっきりで見張らないといけない。 「安全です」なんて報告をもらったところで、今度はその監督者が不正をする 可能性だって考えられるから、つき詰めればつき詰めるほどに安心は遠のいて、 コストばかりが高まっていく。

ドッグフードの安心を考えるときに、たとえば「色が悪くて3日で腐るようなフードは安心」 のような安全の定義を無批判に受け入れられるならば、話は相当簡単になる。

こんな定義を受け入れる人が一定数出てくるならば、その人達相手に商売を行う分には、 業者には添加物を入れる動機がなくなる。その定義が本当に安心を記述しているのか どうかはともかく、こんな定義をとりあえず無批判に共有できるならば、 その人たちが添加物のないフードを手に入れられる公算は相当高くなる。

安心記述の考えかた

それは例えば柱やボルトの太さであったり、その原子炉を設計した技術者に まつわる伝説であったり、あるいはブランドに支払ったお金であったり。

いろんな業界、いろんな考えかたをする人達ごとに「安心を記述するために思考停止した何か」 というものがあって、みんなどこかで思考停止を行っているからこそ、 不安だらけの世の中でも何とか回る。

論理の範囲でいくら考え抜いたところで、安心は絶対に手に入らない。 ところが論理を逸脱した何か、たとえば「山崎パンを食べて死んだ奴はいない」 なんて前提を受け入れることさえできるなら、そこには食品添加物を使った食品という、 安心を伴った広大な世界を手に入れることができる。

建築とか原子力とか、あるいは証券やら信用取引やら、そんな「安心」が 強く求められる業界に住んでいる人たちが前提として受け入れている 「安心記述」を教えてほしいなと思う。

自分達が提供している安全を担保する技術、それを社会的、心理学的にも 受け入れてもらえる「安心」へと転換するための前提条件が安心記述というもの。

医療の業界にはこれが実装されていないか、あるいは医学が進歩を続けてきた 過程の中で失われてしまって、病院業界の中の人、あるいはそれを監督する人、 どちらも安心の定義が分からないから、予算をいくらかけても安心は得られない。

突っ込める予算が限られている以上、安心を得ようと思ったら、 何かの前提を受け入れることを避けて通れない。

世界に無数の宗教があるように、世の中のいろんな立場の人たちが、 自分達の安心記述を相互参照すれば、ある程度の人が納得できる安心記述というものが いくつか出来上がるはず。

それぞれの安心記述ごとに、その定義の中で実装できる安全を模索できれば、 病院の安全というものに多様性が生まれ、選択の範囲が広がる。

「前提の受容」と「安全の選択」。こんなプロセスを患者さんサイドに発生させられれば、 それだけで今みたいな訴訟の泥沼が、いくぶんかでもましになると思うんだけれど。