欺瞞と匿名がネット社会の本質

世田谷区の小学生が、任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を使った、 独自の鬼ごっこを考え出して遊んでるなんてニュースが、なんだかすごく未来っぽい。

細かいルールは報道されていないけれど、基本は普通の鬼ごっこ。 ゲーム機の通信機能を駆使して、「鬼が来た」だとか、「○○君が鬼になった」だとか、 お互いに情報を交換したり、あるいは鬼になった子供が偽情報流して「人間側」の混乱を はかったり、情報戦になるらしい。

「DS鬼ごっこ」に感じたわくわく感、今まで見たことのないものを見たときに感じる、 前向きな違和感みたいなものというのは、「誰もが欺瞞情報を流せる」というところなんだと思う。

トランシーバー鬼ごっこの頃

子供の頃にはトランシーバーが流行ってて、鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、 そんなときに誰かがおもちゃのトランシーバー持ち込んで、おしゃべりしながら遊んだ記憶がある。

トランシーバーみたいな機械が伝統的な遊びに加わって、たしかにそれは面白かったんだろうけれど、 「お互いに通信できること」がもたらしたものは小さかった。単に大声出さなくて済むようになっただとか、 缶蹴りやるとき、味方同士タイミングあわせるのに、身振り手振りを工夫しないで済むようになっただとか。

トランシーバーも、あるいは携帯電話や電子メールも、発信者が誰なのか、 発信されたら分かってしまうメディア。通信できることそれ自体は、だから大声出すのとあんまり変わらなくて、 「トランシーバー鬼」は、ルールを根本から変える要素は、案外少なかった。

それが会話であれ手紙であれ、あるいは携帯電話に至るまで、従来の通信メディアはたしかに進歩した。 一度に多数の人ともコミュニケーションできるし、距離の問題とか、時間の問題とか、 今はいろんな問題が解決された。

その代わり、通信はやっぱり通信であって、「その情報を発信しているのは本人だ」ということが、 正しい通信が成立する前提になっていて、それを破ると嘘吐きだとか、卑怯者扱いされてしまう。

「嘘をついちゃいけない、他人を騙っちゃいけない」なんて、そんな前提を当然のものとしている メディアは、やっぱりどこか、古い道徳を引きずってる印象で、新しくない。

DS鬼ごっこ

「DS鬼ごっこ」を楽しむ子供達は、あの道具を、最初から欺瞞情報を流せる道具、 他人になりすませる道具として楽しんでいて、「嘘をつける」とか、「誰かになりすませる」という、 通信メディアの人達から見れば欠点にしか見えない特徴を、最大限に生かして楽しんでる。

誰にでも成りすましができてしまうこと、匿名だとか、他人の名前を騙れることは、 ネットワークメディアの欠点なのではなくて、むしろそれこそが、 旧来のメディアと、新しい世代とを分かつ本質みたいなものに見える。

詳しい報道はないけれど、たぶん「DS鬼ごっこ」のルールはこんなかんじ。

  1. 何人か集まって、くじ引きで鬼を決める。本人以外、鬼が誰なのか分からない
  2. 1対1なら、鬼は絶対に人間に勝てる。その代わり、人間が複数、たとえば3人で鬼に当たると、鬼は狩られる
  3. 複数固まった人間は、間違って「人間を狩る」こともできる。狩られたら、それが人間だったのか鬼だったのかは明らかになる
  4. お互い通信できる。誰もが好きな人間の名前を騙れるし、鬼が人間のふりすることもできる
  5. 鬼に喰われた子供は、それ以降発言ができなくなる
  6. 鬼が人間を全滅させたら、あるいは鬼が人間に狩られたら、ゲーム終了

誰もが嘘をつけて、しかも発言者の名前すら、信憑性を保証できない中でも、目で見たものは真実。 鬼一人と人間一人、さらに目撃者が一人そこにいれば、一つの真実、「○○君が鬼に喰われた」が発信できる。

ところがその信憑性は、他のみんなには証明できない。

鬼はすかさず「○○君は今も僕の隣で生きてるよ」とか、「僕は○○だけれど、今の発言嘘だよ」だとか、 欺瞞情報を発信できるし、今度は鬼の犯行を目撃した本人が疑われたりする。

欺瞞情報から、何らかの真実が生まれることもある。

「○○が今、人間を襲った」なんて情報が回ってきて、その時当の○○君を囲んで数人の「人間」が 集結してたら、たぶんかなり高い確率で、その集団には鬼がいないことになる。人間が複数固まったら、 もう鬼には手出しができないから、彼らは今度は人間側の狩人となって、「自分たちでない誰か」を 狩りにいける。

みんなが嘘をつける環境、誰もが誰かを騙れる環境においてもなお、見たものは真実であり続けるし、 信頼度を上げた人間が複数固まれば、そこに真実が集まる可能性が高くなる。

鬼になった子供は、だから前半戦では欺瞞情報をばらまいて、人間側に猜疑心を育てないといけない。 群れを分断して、はぐれた人間を狩りつつ、狩った人間を片端から騙って、生き残りが群れないよう、 群れないようコントロールする。

人間側の最適戦略は「人間だけで群れること」になる。人間同士、お互いに通信を繰り返して、 信頼度の高そうな人間同士が固まった「正直村」を作らないといけない。信頼を得られなかった人間は 村から排除されて、たぶん鬼の餌食になってしまう。

ゲーム中盤、鬼は今度は、「正直村」に入り込むことを考えはじめる。目撃者を片端から狩ったり、 狩りを目撃した人間の名前を騙って、その人の信頼度を下げつつ、自らしか知らない真実を 会話に織り交ぜつつ、「信頼できる人間」として正直村に入り込んで、今度は人間が、 人間を狩るのを黙って見守ることになる。

狩ってみるまで鬼が誰なのか分からない「人狼」ルール、鬼が感染して数を増やしていく「ゾンビ」ルール、 鬼が次々とバトンタッチして、最期に鬼になってた奴が負けになる「憑依」ルール、ルールが変わるごとに、 情報のやりとりのしかたであるとか、戦略なんかが変わっていって、きっと面白い。

欺瞞と匿名がネットの本質

誰にでも嘘がつけること、誰かの名前を騙れることは、ネットメディアの欠点なんかじゃなくて、むしろ本質なんだと思う。

情報には嘘が混じっていること、欺瞞情報であっても、状況をきちんと設定すれば、 そこから必要な真実を取り出せること、前提としての真実を廃棄して、虚偽と真実とを、地続きのものとして 統一できたことが、DS鬼ごっこの、あるいはネットメディアの画期的なところ。

「真実が美徳」という古い価値観にとらわれた人は、もしかしたら「DS鬼ごっこ」を楽しめない。

そんな人達にとっては、DS鬼は「かくれんぼ」と「推理ゲーム」とが合体したものになってしまって、 「鬼ごっこ」にならない。欺瞞情報を駆使して、動く相手に操作を仕掛ける楽しさに気がついて、 自らも他人を騙って、積極的に嘘つくような人でないと、たぶん鬼ごっこを鬼ごっことして楽しめない。

見知った顔の友人が話していることですら嘘かもしれない、あるいは当人が真実と思っていることもまた、 知らない誰かが操作を仕掛けた結果かもしれない、何かを判断するための確実な土台など無くて、 入ってくる情報の真実性は、自ら置かれた状況ごとに査定することを強要されるのがネットというメディア。

それを欠点だと叩くのは、古い世代の悪あがきみたいなもので、ルールが変わった以上は、 新しいルールに適応したほうが、きっと楽しい。

「DS鬼ごっこ」の発明は、そうした新しいルールに適応した子供達の、最初の一歩みたいに見えた。

追記。

人狼じゃね? 」なんて突っ込みは「そのとおり」。それでも、DSというデバイス手にした子供が、 自然発生的に「人狼」にたどり着くというのは、やっぱりすごいなと。

このルールで鬼ごっこやるときは、広場みたいなところだとゲームにならないので、真夜中の学校だとか、 廃院になった総合病院とか、見通しが悪くて、お互いどこにいるのか分かりにくいところでやるのがいいかも。

狩られた人とか、あるいは遠く離れた「善意の第三者」が解析部隊として鬼ごっこに介入するのもありだろうし、 たとえば悪意持った誰かが、ハーメルンの笛吹き男よろしく、子供達をネットワークごと乗っ取って、 どこか特定の場所に子供を誘導したり、賢い子供が誘拐犯に逆操作仕掛けて、誘拐犯が 逃げた先には交番が…とか、そんな時代が来たら楽しいなと思った。