危機の対応と機会の対応

外乱と遭遇した際の対処には、「危機の対応」と「機会の対応」とがあって、目指すべき目標や、優先すべき物事が異なってくる。

危機管理者がまず行うべき仕事というものは、「それが危機である」と認識することで、危機と機会との区別に失敗すると、あとからどれだけ努力しようと、対応の遅れが取り戻せない。

タマちゃんブームの昔

ずいぶん昔、「タマちゃん」というアザラシが多摩川に出現したとき、PR会社の人は、あれを「危機である」と看破したんだという。

国が管理している河川にかわいらしい生き物が出現して、あれを「広報のいい機会」ととらえてしまうと間違えてしまう。野生動物には不確定要素が多くて、突然死んでしまう可能性が当然のようにある。ブームが盛り上がっていたとして、そのときに河川の管理者である国の責任がどの程度問われることになるのか、それが予測できない。

河川の管理者にとって、「タマちゃんとの対峙」が何をもたらすのか、予測ができないものについては、危機管理の目線で対応しないと失敗する。あれを「機会」ととらえて、国が主導して盛り上げてしまったなら、たぶん生物保護団体の人たちが黙っていなかっただろうし、人間が絡んだ事故でアザラシが死んでしまったならば、観客の全てを敵に回してしまう可能性があった。

危機と機会を区別する

危機というものは機会の顔をしてやってくる。あるいは逆に、危機に見えるものが危機でない、むしろそれが機会であることもまた多い。

危機管理者が最初にすべきことは、危機と機会の区別なのだと思う。機会に見える事象を危機であると看破し、危機に見える事象を、これは危機でなく機会であると看破し、それぞれの対応を行うことで、初めて成功の可能性が見えてくる。そういう意味で、3月以降のたくさんの災厄について、今の危機管理者は、最初の仕事に失敗しているか、そもそもそれに着手できていないように思える。

危機と機会とを区別するものは予測可能性であると言える。どれだけひどい事故であっても、被害者の数が有限で、そこから先が予測可能であれば、それは危機ではなく機会である可能性が高い。かわいらしい生き物がやってきたときに、その行動や反響が予測できないのならば、それは危機として扱わないといけない。

3月の災厄については、地震それ自体については機会として扱える可能性がまだあって、原発の事故は間違いなく危機であると言える。今の政府は、地震の被害に危機の対応を、原発の事故を「機会に」太陽光発電をとり入れようとしているけれど、あれは両方とも逆だと思う。

リソースの使いかた

機会対応と危機対応のやりかたはそれぞれ異なる。それがもたらすメリットを最大にするのが機会対応ならば、それがもたらす害悪を最小化するのが危機対応の考えかたで、いずれにしても「ちゃんとやるには時間が足りない」ことだけが共通している。

機会対応は、事象によって被害を受けた人への配慮が最優先になる。被害がそれ以上拡大しない、被害を受けた人の不満がコントロール可能になっているという前提があって、初めてその事象を機会として生かすことができる。

危機対応の失敗は、たいていの場合身内が引き起こす。リーダーが危機を宣言したのに、周囲がそれを機会として利用しようと試みたり、危機の対応で固まるべき組織に、外側から何らかの「ゆるみ」が見えたら、チームに対する信頼は瓦解する。危機においては、危機それ自体や危機の被害者よりも、まずはチームで「これは危機である」という認識を共有することが欠かせない。

機会対応の場においては、観客は未来に目を向ける。きちんとしたロードマップの元に、壮大な目標を示すことができれば、リーダーには大きな得点が稼げる可能性が出てくるけれど、そうした目標は、その機会で損害を被った人の声を土台にしている。「被害者の声」と「未来の目標」とは、ちょうど地盤と建物の関係にある。声の大きさを目標の大きさで隠蔽することはできないし、それは脆い地盤に大きな家を建てるようなもので、信頼は簡単に崩れてしまう。

危機対応というものは、「リーダーがまじめな顔で無為に立っている」だけでも、40点の赤点が獲得できる。それでは合格に足りないとはいえ、40点から20点を積むだけで合格圏に到達できる。60点を積む必要はないし、ましてや100点を目指す必要もない。リスクを冒せば100点を取れるだけのリソースを使って、あえて20点を取りに行くのが危機対応の考えかたであると言える。

まじめな顔をしたリーダーの横で、部下がヘラヘラと笑っていたら、せっかくの40点は失われてしまう。20点を獲得するためのプランで、今度は60点を獲得する必要が生まれて、こうなったらもう危機対応は成功しない。危機対応の場にあって、「これを機会に」は禁句で、それをやると、危機の対応も機会の対応も失敗してしまう。