災厄に関するメモ

  • データは見解を覆せない。生データの公開は、メディアの「ねつ造」報道に対するカウンターとしては弱すぎる。それを出すことはもちろん正しいし、心理的な牽制の効果を期待することはできるにせよ
  • 生データはたいてい大きすぎる。発信する側は、データを提供するのとともに、自分の見解を短く、かつメディアに互する程度に面白くまとめて発信しないといけない
  • 言葉を出す側自らが「要するにこう言いたかったんです」なんて発信するのは無粋だけれど、言葉は長すぎる。どうして報道記事を読むのかと言えば、言葉を聞く2分が惜しいからで、記者のまとめた3行なら、10秒で読める。ほんの2分を節約できるなら、たいていの人は、誰かの筆によって書かれた見解を鵜呑みにする
  • 誤解こそが災厄のもっとも普遍的な原因となる。災厄それ自体に対する誤解、自身の備えに対する誤解が災厄を招く
  • 政府の無知は賛成派と反対派の双方をおびえさせる。あるいはある災厄に対して何らかの意見を持つ人は、立場がどうであれ、それをもっとも恐れなくてはならない。無知に対する恐れの不在は、災厄の可能性を必然へと転化させる
  • 災厄の重要な原因の一つは誤った記憶にある。その災厄がいかに恐ろしいものであったのか。復興がどれだけ困難であったのか。忘却や誤解が次の災厄を生む
  • 国民は通常、指導者が危険な災厄に対して準備しているものと思っている。災厄が発生すると、そうした幻想はしばしば崩される。危機的状況において、決定はしばしば、現場を基礎においてでなく、指導者が確信している何かに基づいて行われる
  • 苦境に陥った指導者は、問題に対する質問が減り、解答に要する時間が短くなっていく。こうした傾向は状況を悪化させる
  • 将来起こると思われることは、たいていは過去にすでに起こっている。将来の見通しを立てようと思ったら、過去を学ぶことが役に立つ。「この災厄は、過去のどの災厄と似たものになろうとしているのか」を考えることが、問題の解決する助けとなる