コミュニケーションにおけるゲーム性

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」
という関係が成立する時、それはゲームだと言える。
定義「ゲーム性」 - うさだBlog / ls@usada's Workshop

コミュニケーションもゲームとして記述できる

ある状況の元で、適切なルールが実装されると、そこに「ゲーム」が発生する。

同じルールを引き継いでも、状況に変化があればゲームが発生しないこともあるし、 状況は変わらないのに、お互いがルールを変更していく中で、その場所にいきなり ゲームが発生する場合もある。

コミュニケーションにおいてもまた、「ゲーム性のあるコミュニケーション」が発生する場合と、 ゲームに相当する概念を伴わない、独りよがりなシグナルの投げつけあいに終わる場合とが存在する。

実世界コミュニケーションのほとんどはゲーム性を持っている

コミュニケーションには「帯域」の概念がある。

面と向かったやりとりは、帯域の広いコミュニケーションであって、言葉の抑揚や声色、 演者の姿形や身振り、あるいは「拳」にものを言わせる意志の押しつけといった、 様々なやりかたを選択できる。

テキストが主体になるネットメディアの持つ帯域幅は狭い。

音声を伝えるのは難しいし、手書き文字が持つ「勢い」だとか「筆圧」みたいな要素もまた、 活字メディアには存在しない。文章による表現は、幅広いように思えるけれど、 「面と向かったやりとり」と比較した場合、テキストメディアの帯域幅は、極端に狭い。

帯域の広いメディアにおいては、「コミュニケーション」と「ゲーム」とを区別する必要は、通常発生しない。

実世界でのコミュニケーションにおいては、あらゆるルールが持ち込まれる可能性があるけれど、 自身の探索空間もまた、十分に広い。どんなルールに対しても、「解答」が発見される可能性が高いから、 コミュニケーションには、「ゲーム」の成立する可能性が高い。

面と向かったやりとりは、たいていの場合「ゲーム」であって、 「ゲームの伴わないコミュニケーション」というものは、実世界にはまれにしか存在しない。 それが殴りあいの喧嘩であったり、あるいは上司からの理不尽な叱責であったとしても、 そこが実世界なら、たいていの場合、どこかに「ゲーム」を見いだせる。

泥試合には2 種類ある

自身の選択肢が限られる状況では、相手プレイヤの持ち込んだルールの中に、「解答」が探せないケースが発生する。

帯域の狭い、ネット空間でのコミュニケーションにおいては、「そもそもゲームになっていない状況」だとか、 どちらかが新しいルールを持ち込んだ結果として、成立していたゲームが消失するケースが、しばしば発生する。

「泥試合」と形容される状況には、ゲームが継続されたまま、膠着状態に陥った場合と、 ゲームの消失それ自体に、泥試合という呼称を当てはめている場合とがあって、これは区別されないといけない。

対立する両者が、それでも「勝利」を目指してお互いを面罵し続ける状況は「泥試合」ではあるけれど、 お互いが、相手のルールの中から正解を見いだそうとしている限り、ゲームは継続している。

片方が「これは意味のない罵倒だ」と感じ、もう片方が「これは自由な言論の延長である」と 宣言しているようなケースは、お互いが、お互いの提示したルールの中に「解答」を見つけることが 不可能だから、これは「ゲームが消失した状況」であると言える。

ルールが帯域から逸脱するとゲームが失われる

帯域に見合った適切なルールが設定されないと、ゲームは成立しなくなる。

blog というメディアは、表現の制約が少ない代わり、しばしば炎上する。 同じようなテキストメディアなのに、そこに「140字」という制約を持ち込んだTwitter には、 「炎上」が発生しにくいし、周囲が「つまらない」と感じた話題はタイムラインに流されて、その場所に止まれない。 Twitter というメディアには、常に「ゲーム」が成立していて、制約が多いのに、人が減らない。

ネット上でのやりとりというのは、「文字」という、帯域幅の狭いメディア上で行われる。

喧嘩をするのに「糸電話」を渡されたら、たいていの人はそれを馬鹿らしいと思うのに、 ネット空間という、「糸」よりももっと狭い帯域しか持たない場所に、 実世界でのルールをそのまま持ち込むと、ルールが帯域から逸脱して、 ゲームは失われてしまう。

メディアが許容する帯域幅を超えた振る舞いをする人は、あらゆる帯域に存在する。

物理世界でのコミュニケーションであっても、たとえば「鼻血を出して泣いたら負け」みたいな、 最低限の「喧嘩のルール」があって、コミュニケーションのゲーム性を担保している。

ルールを逸脱する人たちは、気に入らない相手の頭をバールや鉄パイプで叩き潰して、 それを「敵を殲滅した」と表現したりする。あの「コミュニケーション」には、 ゲーム性は存在しないと思う。

自由と強さと楽しさと

言葉だとかお喋りというのは、お互いに、勝ち負けだとか、どこまで罵倒するだとか、 ルールの自由度が大きい。大きいがゆえに、制約を共有できない人とのお喋りを、 帯域の狭いメディアで行うと、ゲームが成立しない。楽しくない。

酔っぱらいとの会話は、しばしば全くつながらない。救急外来で応対していて、 こっちは医師としての制約を背負って、全然楽しくない。泥酔した人は、 酔っているぶん、文脈を無視することが出来るから、しらふの人間よりも、 よっぽど自由であるとも言える。

「自由」であることと、たぶん「強い」こととはしばしば等しい。病院が、 泥酔した人を迎え入れたその段階で、自分たちは、酔って寝るその人に、もう絶対に「勝て」ない。 その代わり、制約を受け入れない限り、その人は「強く」はあっても「楽しい」存在にはなれない。

言論の自由」を叫ぶ人たちに対して、「あなたとの会話は全然楽しくありません」という理由で、 コミュニケーションを拒絶する態度は、お喋りをゲームであると考える限りにおいて、間違っていない気がする。

俺様は気持ちのいいこの状況に糞を塗りたくれるぐらいに自由なんだぜ」と宣言するのは勝手だけど、 まき散らした糞は、ちゃんと責任もって片づけようよと思う。楽しんでいる人たちには、 状況を糞まみれにされて、黙ってそれを我慢する義務はないはずだから。