次につながる制約のこと

それが資金であってもマンパワーであっても、何かが「足りない」状況に対峙したときには、足りない何かを工夫で補わないといけない。

そういう工夫はたぶん、 資金が潤沢にあったらできたこと、「リッチ」とか、「効く」みたいな、肯定的なパラメーターを、 まずはあきらめてみるところから始まる。

何かをあきらめることで、その周辺にはたぶん、「あきらめることで手に入るもの」が生まれている。 今度はそこから、「足りない中でいいものを作る」のではなく、まずは「あきらめないと手に入らないもの」の 付加価値を高めたり、そこからお金を集める仕組みを考えることで、「足りない中で頑張った何か」は、 全く新しいものへと変貌するのだと思う。

お弁当と俳句

フランスのお弁当ブームとか、英語圏で俳句が面白がられたりだとか、ああいうのはたぶん、 「制約って面白いんだ」という気づきが生み出したのだろうと思う。

スプラッター映画でしか語れないのだけれど、海外の文化というのは、「制約というものは少ないほどいい」ということが前提になっている気がする。

制約を減らすには、それだけお金がかかるし、自由すぎる状況からすばらしいものを生み出すためには、 しばしばとてつもないパワーがいるんだけれど、むこうの人たちは、どこかそういう過剰さを、ある映画でバケツ一杯の血糊が用意されたら、 今度はプール一杯使ってみようとか、追い抜くためには、後続はひたすらに量を積みあげるようなところがある。

ジェイソンにしてもフレディにしても、むこうのモンスターはひたすら力押しで、弱点はとても少ない。 その少ない弱点を、無力な人間が何とか見つけ出して、モンスターに勝利するところに面白さがあるのだろうけれど。

日本のホラーはどちらかというと、モンスター役は制約だらけで、まともに勝負したら、下手すると人間に勝てない。 しっかりと作戦を立てて、人間側を特定の状況に追い込んで、モンスターにはやっと勝ち目が出てくるような描写が多い。

海外のスプラッター映画は人間側が頭を使うけれど、日本のホラーは、どちらかというと、モンスター側が頭を酷使する。

どちらが優れている、というものでは無いのだろうけれど、「弱いことが魅力になる」という発想は、海外のスプラッター映画には、案外少ないのだと思う。

効かない薬はよく売れる

たとえば 「全然効かない薬」があったとして、こういう薬は、効かないという制約を受け入れることで、 「気軽に誰にでも勧められる」という、得難いメリットを得ることができる。

「本当に効く」薬というのは、作用してしまう以上、その作用が他の人に好ましくない可能性は、常にある。 「効く薬」はだから、医師でもなければ勧められないし、銭勘定だけを考えると、「効くこと」は、必ずしもすばらしいことだとは限らない。

それが砂糖玉だとか、小麦粉を丸めただけの、どう見ても「効かない」薬であれば、今度はそれを購入したお店の不思議な雰囲気だとか、 あるいはそれを使ってみて、「ちょっとだけまし」な気分になったりだとか、そういう個人的な体験を、留保なしに他の人に勧めることができる。

薬という競争社会においては、だから「効かない」こともまた、決定的な不利益とは言えなくて、ホメオパシーなんかはだからこそ、広まったんだと思う。 あれを「カウンセリングのおまけ」と考えていいなら、カウンセリングという体験に抵抗を持っている人がいたとして、 「薬の購入」という理由を得ることもできたのだろうし。

便利より快適な不便

建築の学生さんあたりに、卒業論文で「その後のビフォーアフター」をやってほしいな、と思う。

それこそテレビで報道できるような、あれだけ特殊な工夫が巡らされた住宅に、じゃあ実際に人が住んでみて、 5年ぐらいたって、現在どうなのか。「工夫」は果たして、長期間にわたって快適を提供してくれるのか、 あるいは「工夫」を捨てて、そのご家族が別の日常を作り出したとして、家の構造は、今どのように利用されているのか。

様々な工夫は、単なる使いにくさになっているのかもしれないし、あるいはテレビでは突飛に見えた工夫が、 実は大当たりしているのかもしれない。一見すると「不便だろう」なんて突っ込みたくなる、そういうものに、 人がどう適応するのか、調べるときっと面白いと思う。

「ドームハウスこそが人類が住むべき住居」みたいに宣伝していたスチュアート・ブランドが、 後年になって「あれは若気の至りだった」みたいなコメントを出して、今はむしろ、マッチ箱みたいな、 シンプルな住宅を、生活スタイルに合わせて組み替えて使うのがいいんだなんて書いてた(うろ覚え)。

シンプルな直方体は、きっと便利を目指したときの正解であって、反論する余地はないのだけれど、 同時にたぶん、直方体はあまりにも自由度が高すぎて、過剰な自由というのはなんとなく、人の幸福度を上げないような気がしている。

「便利」よりも「不便」というのは劣っているのに、個人的にはたぶん、「便利よりも快適な不便」というものがどこかにあって、 それを上手にデザインすることができると、快適な不便さというのは、慣れることなく、一定の快適さを発揮し続けるような気がしている。 具体例も、根拠も何もないんだけれど。

あきらめることで手に入るもの

恐らくは「面白い制約」というものは、まだまだいろいろと開拓できる場所で、そもそもこれは制約だからお金がそれほどかからないし、 むしろそういうものが使えない、マンパワーとかお金とかぶち込めない人こそ、こういう場所で成功できるのだと思う。

何かをあきらめることで、初めて手に入るものというのがたぶんある。

リッチな体験を提供するには、幅広い帯域と、マンパワーや資金とが必要だけれど、それをあきらめて、プアなメディアで勝負することで、 今度はたぶん、メディアの可搬性とか、狭帯域での快適性みたいなものが得られる。その場所でできることは貧弱かもしれないけれど、 リッチメディアで勝負している人たちは、その強みを持ち込むことができないから、弱い側でも勝負になる。

何か貧弱な、「劣った」場所を選択したとして、じゃあ「そこでいいものを作る」ことを真っ先に目指しても、恐らくは上手くいかない。 それは豊かなサバンナでたくさんの動物が暮らしていく中、1人で雪山を目指すようなもので、生きてはいけるかもだけれど、 種族を増やせない。

まずやるべきは、環境の書き換えなんだと思う。

たとえばリッチな体験をあきらめることを選択したなら、まずやるべきは、「プアな環境でいいものを作る」ことではなくて、 そんなことよりも、プアなメディアを生かせるような場所で、お金を集める仕組みを作ることなんだと思う。お金が集まるところには、質は後からついてくる。

既存の何かとの住み分けもたぶん大切で、たとえば「妖怪」というメディアは宗教との共存が可能だけれど、これが「祟り」になると、 宗教とバッティングして、実は案外やりにくいとか、新しいものを展開するときには、どこかに言い訳を用意しておいたほうがいい。

新しいものというのはたいてい、「道端」とか「荒野」から生まれて、状況がパワーゲームになった時点で、そのメディアというのは、 恐らくはもう「古く」なっているんだろうなと思う。