努力には正しい方向がある

どこかに就職したり、何か会社を興してみたりといった体験を持たない、生まれついての「プロの政治家」という人たち、 学校を出て、最初から政治家として活動して、努力した人たちが、そのまま最上階まで行ってしまうのは、恐ろしいことだと思う。

努力した人はしがみつく

何かの目的を持った人、目標を「これ」と決めて、それを実現するためのやりかたを考えた経験を持つ人は、 あらゆる場所が通過点になる。目標を達成したなら、たぶんまた別の目標が見つかって、やるべきことや、必要な資格なんかは、その都度変わってくるだろうから。

漠然と「努力」を重ねて、努力の「ご褒美」として、一番高い椅子を手に入れてしまった人には、もはや「上がりの先」を想像することができない。努力をもっとやろうにも、 そこにはもう、問題集とか、次のご褒美を用意してくれる誰かはいないから、先が見えない。

こういう人が頂点に座ってしまうと、今度はじゃあ、何かの事情でその椅子を誰かに明け渡さないといけなくなったとして、 自分の「その次」が想像できないから、しがみついて、そこに留まり続けること以外に、選択肢がなくなってしまうのだと思う。

1970年代ぐらいのある時期、「頑張れば報われる」と教わって、本当にそのまま頑張ったら、どういうわけか報われた世代というのがたしかにあって、 あのあたりを生きてきた人たちが頂点に立ってみて、次の目標を決められなくて、仕方がないから椅子にしがみつくという情景が、 たぶんいろんな業界で認められているんだろうと思う。

「しがみつく」にも向きがある

「次」を探すリスクが高かったりして、生きていくために意識してしがみつくのと、 何をしていいのかが分からないから、現状維持を目指してしがみつくのと、外から見たって区別は付かないだろうけれど、 中の人の心のありかたは、恐らくはずいぶん違う。

意識してしがみついている人は「悪人」であって、そこから剥がそうとしたら、ますます悪く立ち回るけれど、 次に何をしていいのか分からない人は、基本的に「善人」であって、剥がそうとするほどに、その人は「いい人」になって、それがいっそ不気味に見える。

西原理恵子の本に、「漫画家になりたいじゃなくて、漫画を書いて食べていきたいと考えると、何をすべきかが見えてくる」という内容の言葉があったけれど、 いわれてみれば明らかなそんなことが、自分にとってははじめて指摘を受けたことであって、読んだときにはずいぶん新鮮だった。

「なりたい」と、「それで食べていきたい」との差はわずかだけれど、努力の方向は大きく異なる。 努力に親和性が高いのは前者で、「お金は汚い」という、道徳に合致するのも前者で、結果としてなんとなく、 学校では後者を教えないような気がする。

学校で習うこと

  • 「学校で教えられていることは真である」は、間違っている
  • 「学校で教えられていることは、8割程度は正しい」は、ある程度は真であってほしい
  • 「学校で教えられていることは、世の中の8割程度の人が、正くあってほしいと願っている」が、本当のところなのだと思う

学校で教えられたことに、だから自分をあわせる必要はないし、教わったことが自分の価値観とは異なっていたとして、 それは全然間違っていないのだけれど、学校で何かを教わる意味それ自体は、やはりあるような気がする。

学校は、正しい知識を習得するというよりも、将来自分が何かで食べて行くに当たって、 財布の8割がどんなものを望んでいるのかを知るために、そこで教えてくれる何かを、大いに利用すべきなのだと思う。

「人生何でも好きなことをやりなさい」という教えも、間違いなのだと思う。

本来教えるべき、できれば学校で教えるべきありかたというのは、「好きなことで食べていけるよう、よく考えなさい」ということなのだと思う。

「やること」の中には「食べていくこと」が含まれて、「好きなことをやりなさい」という教えかたのほうが、より広い価値が含まれているけれど、 「それで食べる」以外の方向には、未来がない。

努力は部分的な正解に過ぎない

一生懸命勉強して、いい大学に入る努力をして、面接だとか、選挙をくぐり抜けて、ようやく頂点に到達した人というのは、 「こうあることが正しい」と学校で教わって、世の中の8割ぐらいの人が、こうあってほしいと念じたシナリオを忠実になぞった結果を具現化している。

プログラマー小飼弾 さんが「ケインジアンビューティー」という言葉を教えてくれたのだけれど、 「学校が教えてくれる努力」の結果として、社会的な地位を手に入れた人たちというものは、要するに「美人コンテストの勝者」なのだと思う。 「アジアンビューティー」と「ケインジアンビューティー」とでは、ルールが違うから「勝つ顔」も異なってくるし、 一つのコンテストで勝った人が、じゃあ他のコンテストでも必ず勝てるかといえば、決してそんなことにはならないし。

努力教が本当に成り立った時期というものがあったのだろうとは思う。景気が上向いて、何をやっても上手くいった時期は、 実は「努力しなくても」上手くいったのだけれど、努力した人も、同じような成功体験を手に入れた。

努力教はそれでも、いつの間にかカーゴカルト化して、未だにそれでも必死になって偶像を拝んでる人も多い。

今の首相にしてからが、「俺はこんなに一生懸命偶像を拝んでるのに支持率が来ない。何故だ!」とか、毎日怒って、 怒りはたぶん、最後まで止むことはないのだと思う。

「努力の方向音痴」という言葉があるのだという。自戒したいなと思う。