オムライスの底力
オムライスという食べ物は、ファミリーレストランが外食の代名詞だった昔、「2番手」を代表するような食べ物だった。
オムライスは、どこの洋食屋さんであっても、材料の順列組み合わせで作り出すことができたから、 どこに行っても、メニューの片隅には、たいていオムライスが載っていたけれど、 レストランという「ハレ」の場にあって、オムライスはどこか日常を引きずっていて、 外食に出向いて、あえてそれを頼む人は、当時は必ずしも多くない印象だった。
オムライスの専門店が流行ってる
で、現代になって、「オムライスの専門店」というものがうちの県内にはいくつかあって、どこもけっこう繁盛している。
全国チェーンの支部もあれば、地元の養鶏所とタイアップしているのか、卵を売りにして、その中にオムライスの専門店を 置いているところもあるけれど、いずれにしてもメニューとしては洋食一般、でも看板はあくまでもオムライスが主役であって、 どこもそれなりに混んでいて、みんなやっぱり、そこに入るとオムライスを注文する。
昔ながらの洋食屋さんみたいな、「あれも出すしこれも出す」というやりかたをしているときには、 オムライスというのはどちらかというと地味な存在で、「あれもこれも」というリストの中に混じってしまうと、 オムライスにはどうしても、「これ」という存在感がわずかに足りない。
ところがオムライスそれ自体を主役に押し出してみれば、そういうお店は、いわゆる洋食屋さんに比べれば決して多くはないけれど、 どこもけっこうお客さんが集まって、入れ替わりの激しい外食産業で、数年単位で駐車場は混んでいる
ファミリーレストランの昔と、田舎でも専門店街みたいなものが作れる現在とでは状況が異なるのだろうけれど、 こうしたお店が流行っているように見えるのは、結局のところ「オムライスの底力」ゆえなんだと思う。
無難には未来がない
選択肢をいくつも用意する中で、お客さんに「これ」というものを選んでもらうやりかたをすると、 「無難なもの」、1番ではないけれど、2番目なりの実力を備えたものは、結局いつまでたっても選ばれない。
世の中には恐らく、「2番目の選択肢」に甘んじている何かというのはけっこう多くて、そういうものを探し出して、 あえてそれを主役にした見せかたをできると、物珍しさに「2番手の底力」みたいなものが加わって、時としてけっこう上手くいく。
「無難」という言葉は、「2番手であること」を前提にしていて、言葉の中に「勝ち」の要素が見当たらない。 「難がないこと」は、比較の対象がなければ価値を持たないし、そもそもどんなパラメーターが「益」であって、何が「難」なのか、 成功している1番手がいないことには、比較はそもそも始まらない。
何か未来を目指すときには、「無難」とか、「より優れている」という考えかたを、まず真っ先に捨てないといけないのだと思う。
劣ったものに正解がある
トップを走る競合を追い抜こうと思ったならば、競合よりも「優れているもの」を目指すのではなくて、 競合よりも「悪いもの」を目指したほうが、新しい何かが見つかりやすいのだと思う。
たとえばそれがスマートホンなら、今は各メーカーとも「iPhoneより優れている」を目指していて、 あの競争は「負け」こそないけれど、iPhoneを神様を定義してしまっている以上、その競争からは、「神様を超えた何か」は生まれてこない。
トップランナーを見て、その中に神様を見てしまったら、もう負けなんだと思う。
それを神様だと心の中で認めてしまったその時点で、トップランナーは、人間の手では超えられない、 本物の神様になってしまう。神様をスルーして、自ら工夫できる人だけが、神越えを達成できる。
新しいものは、無難の中には存在しないし、正解はたぶん、一つじゃない。
「より良い」ものを目指すリソースが手元にあるなら、それをたとえば、競合より重い、壊れやすい、電池を喰う、動作が遅い、 画面が粗い、それぞれの端末を仮想して、その劣位と引き換えに得られる何かを探索することに投入したほうが、 「もっとすごい」何かが見つかる可能性が高いのだと思う。
お客さんが本当に欲しかったものというのは、トップランナーにだって分からない。 「これこそが欲しかった」という正解の見つかっていない場所で、競合よりも劣っていないものを目指しても、「そうじゃない何か」にしかたどり着けない。
「神様は顧客に支持される」ことは真だけれど、「今顧客に支持されているものが神様」なのかどうか、 それは挑戦してみないと分からない。
そんな何かを目指すこの頃。今年もよろしくお願いします。