三菱電機IS の危機管理

高木浩光@自宅の日記 - 三菱電機ISは結局会見で何を伝えたかったのか」で取りあげられていた、岡崎図書館事件に関するインタビューのログを読んで思ったこと。

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大雑把に言ってしまえば、グダグダな、きちんと調べて会見に臨んだ記者の人たちを相手に、会社の人たちがかみ合わない議論を続けて、 最後の最後まで、「この事件はこうだった」という、会社の人たちの考えかたが見えない会見だったのだけれど、 このグダグダを「ゴール」だと、三菱の人たちが最初から考えていたのだとしたら、これはこれで模範的な危機管理、クライシスコミュニケーションなのだと思った。

謝意の表明と責任の引き受け

このインタビュー記事に関して、「企業危機管理の悪い事例」というブクマコメントがついていたけれど、 今回のグダグダなインタビューに臨んだ会社側の人たちは、恐らくは「危機対応」に関する訓練を受けて、それを忠実に実行しているように思えた。

会見の当初、まずは社長さんが謝っていた。あくまでも、「被害者の男性に迷惑をかけた」ことに謝意を表明して、 「対応が早ければ」この問題はそもそも発生しなかったのだと、仮定を持ちだして、仮定が満たされていれば、これは問題ではなかったのだと宣言していた。

これは謝意の表明であるのと同時に、今回の一連の騒動は「不幸な誤解の連鎖」であって、技術的な不備が招いた必然なのではないのだと、 責任の引き受けに対して、あらかじめ予防線をはっていた。

脆弱性を突く

記者の側は「紳士的」というか、相手を罠に嵌めるような質問が少なかった印象を持った。

会見の最中、「もう少し具体的に」とか、あるいは会話の途中で「分かりました。こういうことですね」などと、相手からもっと多くの情報を引き出しては、 それを「ピンで止める」、あとから言い逃れができないように事実を確定する手続きを繰り返していて、あれはたしかに議論の王道なのだけれど、 そこから矛盾を引きずり出しては、「この矛盾はどうして生じたのか納得のいく説明をして下さい」とか、 社長さんの口から、強引に「私の責任です」という言葉を引きずり出すような、そういうやりかたは仕掛けていなかった。

記者の人たちは、たとえば「不快な思いをさせて申し訳ない」という言葉尻をとらえて、「不快な思いの「不快」とは具体的にどんなものですか」とか、 細かい語尾から、なんとか会社の側へと侵入を試みていた。

あれは議論を根底からひっくり返すときのやりかたで、そこから細かい矛盾を突いて、「言葉に矛盾があるのだから、あなたの言っていることは全部虚偽だと断言せざるを得ない」とか、 小さな矛盾から大きな疑念を表明するときの前振りなんだけれど、裏を返せば、「本論」部分については、もう企業側がきちんと対策を行っていて、 ごく細かいところに脆弱性を探さないと、記者の側からは本筋の議論に手が出せなかったのかもしれない。

「不快の定義をはっきりさせて下さい」とか、「申し訳ないとは具体的に誰に対してですか」とか、「御社の言う不具合の定義を教えて下さい」とか、 こういうところから論理の瑕疵を探して、相手の感情を揺さぶったり、「余計な一言」を引きずり出してはそれをピン止めすることを続けると、 「それがあなたの言う「不快」なら、このケースはどうして謝るのですか?おかしいじゃないですか?」とか、本論に切り込む足がかりを作れる。 やりかたとしては下品だけれど、言葉の瑕疵をつくのなら、ある種の下品さはどうしても必要で、記者の人たちは紳士的に過ぎるように思えた。

守りかた

会社の人たちは、技術論になると饒舌だった。文字に起こされた記事を読むと、謝罪の言葉は2行ぐらい、技術の説明は5行ぐらいの分量比だった。 「技術」で何を説明しているかと言えば、今回不具合を生じたアプリケーションが、製品の中でどれだけ「特殊」な状況であったのかを強調しているように思えた。

「ここまでは問題なかった。ここからが不具合だった」という切断処理を繰り返すことで、責任の大きさは、どんどん小さくなっていく。 あらかじめ謝意を表明してから、具体的な、技術的な会話を通じて、自邸の特殊さを前面に押し出すことで、 「大きな謝意」と「小さな責任」という、両立しがたい何かを、会社の人たちは両立させようと試みていた。 実際問題、「ご迷惑をかけたことは本当に申し訳なく思っています」という言葉は、会見中に何度か繰り返されていた。

「仮定」という言葉を強調していた。このあたりを見て、「この人達は、訓練を受けてきたのだろうな」と思えた。

「今回の事例は不具合と言えますか?」とか、「クローラの働きは常識的と言えますか?」みたいな記者の質問に対して、 「仮定の質問には答えられません」と、機械的に返していた。あれはみっともないし、いかにもグダグダな答弁なのだけれど、 危機管理としてはあれが正解でいいのだと思う。

「仮定には応えられません。申し訳ありません」というのは「消毒された」言葉であって、言葉にどんな罠を仕込んでも、 こうした機械的な答えかたをされてしまうと、質問する側は、罠を発動することができなくなってしまう。「サニタイズ」という、 データベースへの攻撃からデータを守るときのやりかたによく似ている気がした。

あるいは「どうしてあなた方は態度を変えたのですか?」という質問に対して、「それは技術者としてそうしなくてはと思ったからです」と、 会社の人たちは、自らの振る舞いを変えた動機に関して、全て内的な理由で説明を試みていた。あれは「記憶にございません」という言葉の 延長にあるやりかたで、その人の内部から出てきた何かには、どんな証拠を積み上げようと、誰もそれを崩せない。

見解について

謝意の表明を繰り返す。技術的には特殊であることを強調する。技術的な不備を「特殊である」とかわす一方で、 人的にカバーする体制に不備があったことを、また強調する。こうすることで、三菱の社長さんは、 この事例を「技術の不備」でなく、「誤解の連鎖による不幸な人的エラー」であるという方向に誘導しようと試みて、 それは誠実さには遠いけれど、危機対応としてはある程度成功しているように思えた。

記者の人たちは、おそらくは「この事例は会社の技術的なミスであって、技術の欠如が、結果として不当な逮捕を生んだ」という見解を用意していたのだと思う。 お互い異なった見解をぶつけあう場にあって、三菱の側は準備をしてきていて、記者の人たちは、「紳士的」に過ぎて、攻めあぐねていた、という印象を持った。

会見が「グダグダである」というのは、非を問われる三菱の側にとっては勝利であって、 胸やけのする泥試合、言葉が重なって何が言いたいのか分からない、みんなが「飽きる」状況を、 望んでこうしているのだから、危機対応としては、これでいいんだと思う。誠実とは正反対にせよ。

メディアはこのあと「編集」を行うから、会見が記事として報道されると、また印象は異なるのだろうけれど、 テキストに起こされたやりとりを読む限りでは、記者の人たちは、知識こそ十分備えてきているけれど、 逃げる相手から事実を引きずり出すような、下品な議論技術は、あまり使っていない。あれだと「編集」しようにも、「材料」が足りないような気がした。

「上等な」メディアの、それは矜持なのかもだけれど、守る技術と、守りに入った相手のガードを剥がす技術というものはもう確立されていて、 下品なやりかたをしかけてきた相手には、やはり下品なやりかたで対抗しないと、勝負にならない。 記者の「下品さ」は、この抜き書きからはあまり感じられなくて、これから先、「技術」がもう少し周知されたとして、メディアは本当に大丈夫なんだろうかと考えた。