電線に意識が宿る

スマートホンを持ち歩くようになってから考えたこと。自分なんかはむしろようやく追いついた側で、 携帯電話を使いこなしている人たちは、もっとずっと先を行っているのではないかと思う。

道具の境界がなくなった

ちょっと前までだったら、原稿を書くときにはこの道具、大切な連絡をするときにはこの道具といったように、 同じPCを介した作業であっても、道具を使い分けていた。

スマートホンを持ち歩くようになってから、こうした道具の境界というものが曖昧になって、全てはチャットの延長のようなものへと収斂しつつあるような気がする。

今はたとえば、印刷原稿はTeX で書いて、それをSubversion 経由で出版社にアップロードする。出版社のサーバーが原稿を受け取ると、 それが自動的にメール配信されて、編集者が原稿を手直しすると、訂正箇所の差分ファイルが、またSubversion 経由で送られてくる。 通信メディアは、この場合は電子メールだけれど、Android 携帯は、Gmail が来るとすぐに音で反応するから、遅延はほとんどゼロでいける。

Subversion を介したやりとりとは別に、原稿を読んでもらうために、出版前の原稿はWiki を通じて査読をお願いした人に読んでもらっているけれど、 Wiki のバックグラウンドでもメール配信が動いているから、誰かがWiki に訂正を加えると、それがGmail 経由でスマートホンにプッシュされる。 スマートホンから通知があったら、その場でブラウザを立ち上げると、何があったのかがすぐ分かる。

こうした連絡は、基本的にはメールを介しているけれど、つながっている人たちのほとんどはTwitter を使っていたり、はてなブックマークを使っていたりするから、 メールを使わなくても、Twitter 経由い、あるいはブックマークコメント経由でも、だいたい同じ間合いで会話が成り立つ。

昔だったらこのあたりは、チャットはチャットなりの、掲示板は掲示板なりの空気や流れがあって、 それぞれ使い分けたりしていたけれど、即時性が増していった結果として、道具の境界は曖昧になってきた。

「どれ」よりも「何」が大切

アプリケーションの境界が曖昧になった結果として、「どれを使いたいのか」でなく、「何をしたいのか」に、今まで以上に重心が移っていくのだと思う。

何かやりたいことがあったときに、「どれ」にこだわると、「何」を決断するタイミングを逸するのかもしれない。 自分がマニュアル本を作ろうと思ったときには、最初に「TeX を使いたい」というこだわりがあったものだから、 結果としてたぶん、あれで4年ぐらい遠回りした気がする。

メモを取って、それをPDAで持ち歩く、それだけのことを実現するのに、「LaTeX でメモを取る」という一線にこだわったあまり、 PalmLaTeX との連携は難しくて、Android 携帯でPDFが読めるようになって、ようやく紙のメモ帳に追いついた。 このあたりもたとえば、 Androbook のようなサービスを使うことで、 もっと便利な、ハイパーリンクを活用したメモをPDA上で運用することなんかが簡単にできるようになるのかもしれない。

あらゆるものが携帯電話になる

PC上だけでなく、たぶんリアル世界での道具もまた、境界が曖昧になって行くのだと思うし、境界をまたげない機械は取り残されてしまう気もする。

恐らくはあらゆる機械に通信機能がつくようになる。デジカメとスマートホンとの境界はすでに曖昧になりつつあるし、 そのうちたぶん、Kindle みたいに通信無料、ストレージ無限がコンパクトデジカメの最低要件になっていく気がする。 あるいはストレージをメーカーが用意する時点でもう古くて、ユーザーが画像を保存するためのメディアを、ネットワークを通じて 簡単に選択できるようにならないと、時代に取り残されてしまうのかもしれない。

「会話する家電」の流れは、やっぱり必ずあるんじゃないかと思う。自分の中身をプッシュ配信する冷蔵庫とか、 ガスの大きさを配信するコンロとか。「インターネット家電」というものは、発案されたときには笑い話だったし、 今だってそういうものは市販されていないけれど、スマートホンを当たり前に持ち歩くようになると、 ほんの2歩、台所に火加減を確認する手間が省けるのなら、人はそれを省こうとするんじゃないかと思える。 「歩いて確認しろよ」という突っ込みは、最後の1クリック分の想像力が足りない気がする。

「それが携帯電話になったら人はどう変わるのか?」という遊びをするといいのかもしれない。冷蔵庫の機能を持った携帯電話。 電子レンジの機能を持った携帯電話。その場所から見えるもの、周りにあるお店をプッシュ配信する車。すぐにだって始められるし、 通信機能を付けたって、「通話料は永久に無料」をひねり出す政治的な抜け道も、Kindle みたいなやりかたで、何とかなるのではないかと思う。 昔は全部笑い話だったけれど、それを笑わない人の数は、ゆっくりとだけれど増えていく。

電線に意識が宿る

IE4 の「画期的な機能」として、情報のプッシュ配信というものが搭載されていて、当時は大いに期待して、インストールして、 「単なる広告じゃん」なんて、騙された気分になった。

あの頃「プッシュ」された情報を閲覧するためには、何よりも机に座ってPCを立ち上げる必要があって、 今はポケットのスマートホンが、当たり前のようにシグナルを「プッシュ」して、人の行動に指示を出す。

流れとしては、これは決して不快ではなくて、自分はどんどん怠惰になった。今はもう、天気を確認するのにも、 空を見ないでAndroid の天気ヴィジェットを確認する。

自分が生きているうちに、電気の流れるあらゆる機械が「つぶやく」ようになるのだと思う。蛍光灯や電気ポット、 電子レンジももちろんだし、町の自動販売機とか、自動ドアや乗用車に至るまで、何か人間が動作をすれば、 動作をしたこと、それに対する反応を、ネット越しの誰かに向かって配信するようになる。

それをいちいち確認するのは無理だろうけれど、たとえばある家の「つぶやき」を時間軸で視覚化すれば、そこに生きている人の 生活サイクルが見えてくるし、生活サイクルに狂いがあれば、何かあったということが見て取れる。

あるいは「つぶやき」と位置情報とを重積すれば、今現在の、町の「賑わい」を視覚化することだってできるし、 スマートホンにはカメラがついているから、撮影した画像を公開にしている人にアクセスして、「現在のそこの風景」を、 居ながらにして眺めることもできる。

自販機や、蛍光灯がやっていることは、それを操作した人間に対する機械的な反応だけれど、 それを集めて視覚化すると、「家の意識」や「町の意識」としか表現できない何かになる。

「つぶやく家」や「つぶやく町」というのは気持ちが悪いかもだけれど、流れとしては必然であって、 「風水」みたいな考えかたを通じて、なんとなく理解をしていた場所の意識みたいなものが、 可視化されるようになっていくのだと思う。