握手には意味がある

握手というものは、「私はルールを守ります」と相手に宣言するときのどうにもなるし、 ルールの外側で交渉を行う際には、握手を行うことが、相手の立場を崩すきっかけになったりもする。

交渉は一つじゃない

交渉には、「ルールブックの上で行われる交渉」と、「ルールブックを挟んだ交渉」とがあって、 「ルールブックをしっかり読んで、お互いに可能なことを探しましょう」というのも交渉術だし、 「とりあえずルールブックを破り捨てて、うろたえる相手にこちらのルールを突きつけてやりましょう」というのも交渉術になる。

向いてる方向は正反対なのに、同じ言葉でくくられるから、交渉術というものはしばしば誤解される。

たとえば「ハーバード流」や「ユダヤ人の教え」といった本も「交渉」を扱っているけれど、 そもそも契約書を守るつもりのない相手に対して、こんなやりかたで挑んだら大変なことになる。

軍事や外交の考えかたは、交渉と言うには大げさに過ぎるけれど、お互いにルールを守るその手前の段階では、 むしろこちらの考えかたのほうが、「交渉」という言葉が腑に落ちる。

交渉術が、ハーバードに学んだり、ヤクザに学んだり、人質交渉人に学んだり、ホテルマンに学んだり、 みんな違うことを言って、みんななんとなく嘘を言ってないように思えるのは、それぞれの人が、 それぞれの方向に向かって真実を語っているからで、交渉というのは一つではないのだと思う。

ルールブックには限界がある

基本的に、「議論」や「説得」のようなやりかたを通じて、その人の見解を変えることはできない。

「ハーバード流交渉術」のようなやりかたは、お互いの見解を書き換えることなく、相手があらかじめ想定していた範囲での妥協を引き出したり、 あるいは相手が気づいていない「妥協の余地」や「交渉の余地」を、「まだこんなにありますよ」と示してみせることで合意を引き出すための方法論であって、 見解の書き換えを前提にしない以上、「ハーバード流」のやりかたでは、たしかにwin-win の解決以外に選択は得られない。

「ハーバード流交渉術」の達人は、ルールブックを細かく勉強する。相手が「柔道」を挑んできたときに、 レスリングみたいな「judo 」ルールで対抗すれば、ルールブックを活かせる分だけ、ルールの範囲で有利な勝負ができる。

そもそもルールブックを守る気のない相手は、「柔道をやりましょう」とやってきた相手に対して、武器を手にしたり、 相手選手の家族を人質に取ろうとしたりする。こういう人たち相手に「ハーバード流」を説いても無理で、 そもそもルールとは何なのか、それを守ってみせることでどんな利益があるのか、どんなルールなら共有できるのか、 そのあたりから話を始めないと、ゲームにならない。

事実やルールを書き換える

そこにある事実を基盤にしてお互いの見解が作られて、事実が共有されていれば、対立した見解は、 自然発生したルールの中でぶつかりあう。事実が変わらない以上、見解は一定の範囲に収斂して、 一致した見解の落としどころを、「ルール」の中で、お互いに探り合うことになる。

ルールを逸脱した「落としどころ」を、相手を屈服させる、決定的な妥協を強いる、 明らかにその人の不利益になるような振る舞いを引き出すためには「見解の書き換え」を行わなくてはならない。

議論という手法でこれをやるのは無理で、世の中のいろんな場所で、「議論で見解は書き換えられる」と誤解されていて、不毛な議論が終わらない。

定まったルールがあるところに、別のルールを持ち込めば、「ルール違反だ」と怒られる。 ところが対立する見解の、根拠となっている事実関係が改変されたら、ルールは変更を余儀なくされる。

相手の側から決定的な妥協を引きずり出す、「見解の書き換え」を行うためには、見解の地盤になっている事実の侵略を行う必要がある。

「勝つためにはまず人質」なんて発想をする人と柔道をしようと思ったら、「そもそもスポーツと殺しあいは何が違うのか」あたりから説かないと、恐ろしくて勝負が始められない。ハーバード流どころじゃない。

固定した状況に、無理矢理に「ある事実」をねじ込める人は、それを通じて場のルールを改変できる。 外乱からルールを守るために契約書が交わされるのだけれど、ルールを逸脱した交渉を行う人は、 みんなその場所を攻撃対象として狙ってくる。

様々な状況で、万能選手的に交渉が上手な人というのは、口が上手い、論理の構築が巧みというよりも、 むしろそうした巧みさを利用して、ルールの境界を微妙に変更してみせるのが上手なんだと思う。

だから握手が強い

交渉を進めるためには事実の改変に注意しないといけないし、それがどれだけ些細なものであっても、場で共有された事実に、 別の何かが付け加えられたら、ルールはもう、元のままではいられない。

握手というのは、「私はルールを守ります」という宣言であると同時に、拒否することが難しい、最も小さな「事実」でもある。

「お互い手を握った」という事実を、人はそう簡単にスルーできない。

ネット越しにどれだけ激しい言葉を浴びせられたところで、相手がどれだけの正当性を宣言したところで、 電源を落とせば忘れるし、忘れられる程度の何かは、その人の見解には響かない。ところが握手の感触はいつまでも残って、 「握手をした相手」のことを、冷酷に切り捨てられる人は少ないし、それをやると今度は、「あの人は握手をした人間を切り捨てた」という、 握手が導入される前にはありえなかった印象が、その行動に付け加えられてしまう。

たかだか握手でも、これを無意味だと断じる人は、そもそも交渉ごとに向いていないのだと思う。