大きな数に対する態度

ちょっと前、若い人が原因不明の発熱で入院して、診断がつかなかったことがある。

目に見える症状は「発熱」だけだったから、熱源調べたり、血液の培養出したり、 考えて、調べて、「これ」という原因がはっきりしないまま、何日か経った。

その方は、外来でCTを撮られてて、わずかな胸水があったから、フォローの意味でCTが再検された。

夕方のカンファレンスで「原因がはっきりしない人がいる」なんて、その患者さんの画像が供覧されて、 誰かが「肝臓縮んでるよね…」なんて指摘した。

そういう視点で検査データを見直すと、たしかに日を追うごとに肝機能が悪くなっているように見えて、 この時点でうちの施設では白旗上げて、大学にお願いすることになった。

大学では、入院したその日に原因分かって、すぐに治療が始まった。

検査の力

どこの病院にも「スクリーニング採血」という考えかたがあって、入院した患者さんは、 原因にかかわらず「一通り」の採血を受ける。変な病気を見逃したり、あるいは肝炎みたいな 感染症を持っていないかどうか、最初の採血で見当をつける。

大学病院は、「スクリーニング」の範囲が広大で、生化学検査一通り、感染症一通り、 膠原病だとかアレルギー、ありとあらゆる検査を、全ての患者さんについて提出する。

紹介した患者さんは、結局のところ膠原病の初発症状を見ていたみたいで、 大学に入院して、入院時の採血検査を受けて、その日の夕方には答えが出た。

分かってしまえば、あるいは大学流のやりかたをやってさえいれば、研修医でも分かるぐらい、 簡単なことだった。

大きな数に対する態度のこと

医療の業界では「なるべく少ない検査」というのが美徳で、「スクリーニング」みたいな やりかたも、自分が研修医だった頃は邪道と言われて、頭を使う医師になりたかったら、 ああいった真似をしてはいけないんだよ、なんて教わった。

物理学の業界、超ひも理論なんかの入門書を読むと、大きな数に対する態度がずいぶん違う。 あの人達が今問題にしてるのは、理論を統合しようとしていくと、必ずある計算の答えが 無限に発散してしまうことらしくて、「無限じゃない」ことが分かれば、それはもう画期的な発見で、 無限でないことが証明されたその時点で、その理論は力ずくの計算が可能であると 認識されるんだという。

宇宙の深遠見てる人達と比べることが間違いなんだけれど、 検査30種類とか出したら「そんなに出して何をしたいの?馬鹿なの?殺したいの?」とか上級生から 頭叩かれるような業界に長くいると、30種類ぐらい、物理学の人達のこと思えば、ゼロに近似したって いいじゃないかとか思う。

もっと検査出していいような気がする

「70種類」の採血項目出していいなら、たいていの病気が診断できるような気がする。 そもそもほとんどの疾患は、患者さんの症状診れば診断可能で、検査が必要な人というのは、 その時点で「普通のやり方では分からない」という大きな限定条件が付くから、 「70種類の検査」の威力は、通常以上に高くなる。

外注検査のカタログは分厚くて、あれに載ってる検査を全部提出すると、もちろん70種類には 全然足りないんだけれど、検査の大半は、臓器の機能を評価するためのもので、 診断につながる検査は案外少ない。

一般性科学検査と血算、培養と、代表的なウィルス抗体、膠原病の採血一通りに腫瘍マーカー一通り、 採血で証明可能なホルモン検査一式、全部出してもたぶん、まだ70種類には届かない。

「入院したら70種類」をやっていいなら、たぶんたいていの病気はこの時点で診断できるし、 「70種類が全て正常」という情報と、入院した患者さんの症状を組み合わせるだけで、 たぶん残る病名は、かなり絞られてくるはず。

診断学の教科書は分厚くて、知らないといけないことは年を追って増える一方だけれど、 人体の構造だとか、弱点だとか、昔も今も、もちろんほとんど変わらない。

「検査は少なければ少ないほどいい」という態度は、診断学の教科書に書いている病名を見て、 そのあまりの多さに恐れをなした誰かが、「どうせ病名は無限にあるんだから、最初は最小限」なんて、 大きな数に白旗を揚げた名残のように思える。

大きな数を見て、それを「無限である」と考える人と、 「十分に計算可能なぐらい有限」と考える人とでは、たぶん同じ数でも、 見えかたが全く異なってくる。

病気の数は、たぶん今も昔もそんなに変わらないけれど、検査のやりかただとか、 コストだとか、技術が進歩して、今はもう、「70種類」もそれほど無茶じゃなくなっている。

自分たちの学問も、そろそろ「有限」に舵切り直してもいいような気がする。