創造的安普請

創造というものは「何でもない」場所から生まれる。

今の時代は何でもあって、手に入らないものなんてないはずなのに、「何でもないもの」の居場所というものは、どんどん失われていっているような木がする。

創造の生まれる場所

たとえば「日本版シリコンバレー」みたいな、何か創造性を期待するような場を本気で作ろうと思ったならば、 「きれいなオフィスを国費で安価に提供する」ような発想をしてはいけないのだと思う。

国がどこかを開発して、こぎれいなビルを並べて、安い家賃で貸し出したところで、新しいものは創造されない。 きれいなビルの代わりに、どこか土地の安い、不便な広場を買い上げて、廃棄寸前の貨車だとか、 コンテナみたいなものを大量に並べて、「水道と電気、無線LAN だけ用意してやるからあとは自己責任」みたいな場所を用意したほうが、 「創造」はより近くなる。

アップルはガレージ生まれだし、ホールアースカタログが編集されたのはたしか貨車だったし、 インターネットの先駆けになったのは、MIT で一番ボロッい木造研究棟だった。

自分にコントロールできる場所

創造というものは、しばしば「ボロい場所」から生まれるけれど、単なるボロ屋と、 「創造的安普請」とを隔てているものというのは、その場所を自分でコントロールできるという感覚なのだと思う。

家賃がどれだけ安くても、たとえばそこが厳格に管理された賃貸住宅で、 壁に穴を空けたり、ドアを外したりするだけで退去を命じられるような場所であったなら、その場所から創造は生まれない。

放置されたも同然のガレージや、あるいは中身を自由に改造してもいいコンテナというものは、 そこに住む人が、その空間を自分の意のままにコントロールできる。

きれいなオフィスに比べれば、貨車やコンテナは、見てくれも居住性も悪い物件だけれど、 「自由にできる」というメリットは、何か創造的なことを行うときには、とても大切なものになる。

自動車の免許を取ったばかりの頃、「日本の道には、お金を払わずにちょっと止まって休む場所がない」ということに気がついて、愕然とした。 もちろん慣れてしまえば、休む場所なんていくらでも見つかるんだけれど、それはたとえば「コンビニエンスストアの駐車場を無断利用する」だとか、 「歩道に車を乗り上げる」だとか、あえてルールを破るようなことをしないと、なかなか手に入らない。

初心者マークのドライバーにとっては、日本の道路というものは、法律で厳格に管理された空間であって、 ドライバーにコントロールできる場所というものは、自分が運転している車の中にだけあって、道路の上にはどこにもなかった。

創造は間隙から生まれる

創造は、歴史の間隙から生まれるのだと、立花隆が昔何かで書いていた。歴史上の人物を追っていくと、 たいていどこかに記録に載らない期間があって、 そうした空白期間の後、何かすごいことをしでかすのだと。

間隙の期間というものを、「自分にコントロールできる場所」で過ごすことが創造の根っこであって、 コントロールとは要するに、「開けたいときに壁に大穴を開けられること」なんだと思う。

そういう場所は、だからこそこぎれいな賃貸住宅では無理で、実家でもやはり難しくて、 やっぱり「誰のものでもない、自分だけの場所」というものが必要になってくる。

「何でもないもの」が減ったような気がする。

それは壁に穴を開けてもいい下宿もそうだし、 FR時代のスターレットや、サニートラックみたいな車も、あれは車であって、 同時に「何でもないもの」でもあって、改造する人、山で転げ回って遊ぶ人、 レースに出る人、同じ車がいろんな用途に使われて、あれに乗る人たちは、 たしかに車をコントロールしているように思えた。

今のスポーツカーは、昔の乗用車なんかとは比較にならないぐらいに高性能だけれど、 「スポーツカーをスポーツカーとして乗り回すこと」は、それは説明書きどおりの使いかたであって、 コントロールとは遠い。

「創造的安普請特区」なんて、一歩間違えれば犯罪の温床になりうるし、「何でもない車」というのは、 しばしば同時に危険な車でもあって、今の時代にはやりにくいのだろうけれど。