正直の向こう側

「正直のありよう」というものは、語る側と調べる側とで、意味するところが全く異なってくる。

独りよがりな「正直」を貫くと、「相手は自分の意見を全く聞き入れてくれなかった」と絶望することになるし、 「お互い正直ベースで生きましょう」と親しげに声をかけてみせることが、相手の脆弱性を突く手段にもなってくる。

正直の意味には幅がある

漠然と「いい人」であるための正直というありかたと、脆弱性対策としての正直とは、同じ単語でも、意味が全然違違ってくる。

取り調べを受ける立場になった人たちが、前者の「正直」を貫こうとすると大変なことになる。

訴訟に巻き込まれたり、刑事事件の取り調べを受けた人のインタビューでは、「自分たちの意見を全く聞き入れてくれなかった」とか、 「事実のごく一部だけしか取りあげてもらえなかった」といった感想が、しばしば語られる。

あれは恐らく、調べる側が「事実をあえて無視した」わけではなくて、正直という言葉の解釈が、お互い全然違うからなんだと思う。

調べる側は、相手に向かって「正直にやりましょう」と声をかける。調べられる側もまた、 正直に、「いい人」であろうとして、質問されたことに対して、しばしば事実を臆測で補って、迎合的な答えを返してしまう。 調べる側からすれば、自分たちにとって迎合的な言葉というものは、そのまま動かぬ証拠になるから、 それを積み重ねていくことで、最後には被告が思いもよらなかった結論を、被告自身の口から引き出すことができてしまう。

取り調べを受ける人は、だからこそ頑なに「正直でいる」必要がある。その代わり、その「その正直さ」は、 普段自分が意識しているそれとは全く異なったものになってくる。

事実は一部しか見えない

刑事事件に代表される「取り調べ」というものは、化石を発掘するようなイメージの、 「事実を発見する手段」というよりも、むしろデータベースの脆弱性を突破するような、 相手にあえて不正な入力を行うことで、「自分たちに必要な言葉を相手の口から言わせる技術」であると考えたほうがいいのだと思う。

事実というものは立体をしていて、ある人の立っている場所からは、事実の一面を見ることしかできない。

「正直である」態度というものは、事実という立体の、「見えない裏側を臆測してみせる」ことではなくて、 「こちらからは裏側が見えません」と宣言することなのだと思う。ここがたぶん正直の誤解を生む元になっていて、 人間の脆弱性になっている。

取り調べを受ける立場の人からは、事実のある側面しか見ることはできない。人はみんな見解というものを持っていて、 断片的な事実から、「恐らくはこうだろう」という全体像を構築している。

取り調べを行う側は、逆に言うと、事実の裏側が見えているけれど、反対側は、相手の言うことを信じることしかできない。 立場が違えば、共同作業で「事実」を組み立てることになるけれど、お互いの見解はしばしば大きく隔たって、 妥協の余地は見つからない。

訴訟というものは、決定的な見解の相違を強引に解決するための手段であって、事実の一側面が相手に確保されてしまっている以上、 見解の溝は埋められない。譲歩の余地がそもそもなかったり、お互いの見解が極端に異なっていたときには、 今度は見解の根拠となっている事実それ自体が攻撃の対象になってくる。

「記憶にありません」という言葉

軍事裁判で証言するときには、「知らない」という言葉を使ってはいけないのだという。 たとえ自分が忘れていても、「知っているはずだ」という証拠が出てきたら偽証罪になってしまう。

分からないことに対しては、だから「記憶にない」という言葉を返す必要があって、 そうすれば証拠があっても偽証にならない。

ある事実があって、自分がそれを知らないときには、「それに関する記憶がない」ことだけが正直であって、 「聞いていない」とか「知らない」という言葉は、「聞く」とか「知る」という動詞の分だけ、臆測が、「嘘」が入ってしまう。

「知りませんか?」と問われて、「記憶にありません」というのはなんとなく居心地が悪くて、親しげな返答を変えそうと思ったら、 どうしても「知りません」という言葉を使いたくなってしまう。このことは、取り調べを行う側にとっては、相手の脆弱性に他ならなくて、 質問は常に「知りませんか?」とか、「聞いていませんか?」という投げかけを通じて行われることになる。

「人には親しい印象を持たれたい」という脆弱性を利用して、取り調べの相手に、「見えない裏側」を臆測で語ってもらうように誘導して、 その人が語った「裏側の情景」と、実際に見えている裏側の情景との矛盾を証明することで、「相手は嘘をついている」という結論が導き出せる。 嘘をついた相手の見解は、もはや信用されることがないから、決定的な見解の対立は、相手の見解を崩すことで、強引に解消することが出来るようになる。

脆弱性対策としての正直

ある事例に対して、自分がどれだけ妥当な見解を持っていても、それが相手の見解と異なっていたのならば、トラブルは解消できない。

見解が決定的に対立したときには、根拠になっている事実それ自体が書き換えられる可能性が高いから、 自分の立場を守るためには、「誠実に見解を語る」だけでは不足で、事実の改変を意図した質問に最大の注意を払って、 あらゆる言葉に対して「正直」を貫く必要がある。

「正直」という管理ポリシーは強力だけれど、運用を間違えると、脆弱性を突かれてしまう。

「正直に語る」ためには、自分が今どんな質問を受けているのか、注意深く聞かないといけない。 「聞くこと」は、簡単そうに見えて非常に難しい。本来は最も大切なことである「注意深く聞く」ことは、 たぶん取り調べの現場では、なかなか守られない。

質問に対する対策には、特定の意図を持った質問を最初から受け付けないような「根本的対策」と、 ある質問を受け入れざるを得ないときに、その影響を最小限に抑えるような「保険的な対策」とがある。

根本的な対策を行うためには、特定の質問をブラックリスト化して、それを最初から拒絶すればいい。 「そのまま答えてはいけない質問」には、いくつかの代表的なパターンが決まっているから、 質問を聞きながら、質問者の意図を「診断」するよう心がけると、集中力を保つ助けになる。

保険的対策は、意図を無効化するほどの効果は期待できないものの、 何かの事情で意図を受け入れざるを得ないときの、言わば「セーフティネット」として機能する。 「記憶にありません」が代表だけれど、流ちょうな会話をあえてあきらめて、 特定の言い回しを何度も繰り返してみせることで、質問のダメージは最小になる。