事実と見解について

事実と見解、状況のコントロール、その周辺の言葉について。

見解の一致は目標にならない

ある事実があって、お互いがそれを共有した上で、その事実に対する見解を持つ、この状態が、コミュニケーションが目指すゴールになる。

事実が「これ」と定まったところで、立場や目的が異なっていれば、見解は一致しないことが当然であって、見解の一致をみた状態というものは、 交渉が成功した状態というよりも、むしろ偶然に生じた例外的な状態なのだと思う。

見解が一致したほうが、もちろん合意を形成しやすいけれど、異なる見解を強引に一致させようと思ったならば、相手を「説得」する必要がある。 説得というものは、見かたを変えればどうしても虚偽と受け取られてしまう可能性があって、病院のような、お互いの間合いが近い、 何度でも交渉をやり直す機会が得られるような場所では、「説得」はいい結果を生まない。

状況のコントロールとは何か

状況のコントロールというものは、2つの大きな部分から構成されている。一つが「そこにある事実に対して自分の見解を持つこと」であって、 もう一つが「見解の確立のために、事実のコントロールを行う」ことになる。

そこで生じた一連の事実を共有して、自分がその事実に対する妥当な見解を示すことで、状況はコントロールされる。 お互いの目的が異なる以上、見解が一致しないことは珍しくないけれど、事実が共有されている限り、合意を生む努力は無駄にならない。

ところが見解というものは、土台となる事実に変更が加えられると、意味を失ってしまう。見解が妥当である限り、状況はコントロール可能だけれど、 共有されている事実の一部が削除されたり、あるいは「新しい事実」がそこに付け加えられてしまうと、コントロールは失われてしまう。

状況のコントロールを獲得するためには、事実に対して自分自身の妥当な見解を示してみせることとは別に、 その見解の土台となった事実が変更されないよう、お互いに共有された事実に対する削除や付け加えに注意し、 それを拒否してみせる必要がある。

見解を作るために聞く

昔から病院の現場では、こじれることになりそうな事例ほど、とにかく検査、検査、検査を、という対策を、習慣的に行っていた。 医学的にはこれは「間違え」だし、普段はこれをやろうとして、むしろ「馬鹿」と怒られたりするのだけれど、 同業者の多くは、これに納得してくれるのではないかと思う。

こじれそうなときに、どうして検査を乱発するのかと言えば、たぶんあの頃の自分たちは、一刻も早く「自分の見解」を作りたかったからなのだろうと思う。

症状だとか、患者さんの状態変化だとか、一連の事例というものに対して、 「それはこういうことだと思います」と、自分たちの側の見解を、ある程度の説得力を持って組み立てられれば、 困難な状況であっても、ある程度の余裕を持って対処が出来る。

病院側の見解が作られる前に、相手の側から「こういうことなんじゃないのか?」と突っ込まれて、 この時点で医師が自分の見解を示すことが出来ないと、話がこじれてしまう。

見解の不在はトラブルを生む

状況が悪いときには、誰もが殺気立つ。患者さん達の側から、 「こうだろう?」という攻撃的な問いが出されても、自分たちの見解がないときには、対処が難しい。

問いに対して、「分かりません」と答えるのは正直なのだけれど、対応が後手に回る。

暫定的に、「違います」と答えてしまうのはよく陥る誤りで、これは状況を拮抗させようというあがきの裏返しなのだけれど、 自分たちの見解がないままに発せられた、無目的な「違います」は、状況をむしろ悪化させてしまう。

見解の不在が招いた悪い状況にあって、患者さんの側から 「こうだろう?」と問われたときの正解は、やはり「調べましょう」なのだと思う。

医学的に、その「調べ」が妥当なのかどうかはともかく、「こう」と示されたその見解が正しいのかどうか、 それを検証することを約束できなければ、話しあいは建設的な方向に進めない。

このあたりは、医学的な正しさと、患者さんの要望との衝突が常に起きるところなのだけれど、たとえ真夜中であっても、 元気な若い人が「CT撮って下さい。脳出血かもしれないから」と歩いてやってきたなら、交渉のルールにおいては、 やはりCTを撮ることが正解なのだろうと思う。

医学的には、それは間違いかもしれないけれど、上の人たちが、ならばCTをオーダーする以外の、 患者さんを納得させて、研修医がすり切れないようなやりかたを提案できるのかといえば、無理だと思う。

説明は見解形成のプロセス

「聞く」とか「調べる」という行為は自分の見解を作るための工程で、一方で患者さんに対して「語る」とか「説明」するのは、 共有した事実から、相手の側にも見解を作ってもらうための工程に相当するのだと思う。

自分の側が見解を示せないとトラブルになるけれど、相手側の見解が不在のままに状況を進めることも、同じぐらいに悪い結果を生む。

治療が上手くいっているときには、見解の不在は、それほど大きな問題にならない。状況を追認していれば、 患者さんはたいていの場合落ち着いて、落ち着いたのならば、漠然と丁寧な対応を心がければ退院に持って行ける。

患者さんの側に、事態に対する見解が作られないままに治療が進んでしまうと、悪くなったときにトラブルになる。 見解の不在はたいていの場合、医師に対する全面的な信頼という形で表明される。

この状況は、上手くいっているときには楽なのだけれど、治療の結果が、患者さんが漠然と思っていた結果と異なっていたときには、 「信じていたのに期待を大幅に裏切られてしまった」という感想を生む。これが本当に怖い。

真夜中の外来に、明らかに元気な子供さんを連れてきて、「先生のことを全面的に信頼していますから、 この子に大丈夫と言ってあげて下さい」などと笑顔で求める親御さんというのは、「子供が元気だ」という事実に対して、 自分自身の見解を持っていないから、病院にそれを買いに来ている。

見解の存在しない、一方的な信頼というものは、不信よりもずっと危険な状態だから、患者さんの「見解の不在」というものに、主治医は常に気をつけないといけない。

聞いて調べて説明して、お互いに「事実」を共有して、自分たちの「見解」を作り上げることが出来たのならば、トラブルの可能性は相当に少なくなる。

事実を外乱から守る

事実が共有されている前提で生まれた「見解の不一致」は、トラブルにはならない。譲歩を行えば合意は得られるし、 事実が共有されている以上、どの程度の譲歩が妥当であるのか、お互いの思惑が異なっていても、妥当の範囲は変わらない。

ところが譲歩の余地がそもそもなかったり、お互いの見解が極端に異なっていたりするときには、今度は見解の根拠となっている事実それ自体が攻撃の対象になる。

麻薬系鎮痛薬の中毒になっている人は、真夜中の外来に、文字のかすれた紹介状を携えてやって来る。 外来の主治医にとって、見解を作るために必要な事実というものは、「今その場に来ている患者さんの症状」が全てであって、 「紹介状の真偽」という、別の事実をそこに入力されて、それを受け入れてしまうと、主治医の見解が根拠を失って、結果として話が泥沼化する。

謝罪という道具は、主治医が作り上げた見解の根拠になっている事実に対する、不正な事実の入力を拒否するための道具であって、 謝罪という道具が道具として機能する前提として、抑止力というものが必要になってくる。

訴訟になったり、刑事事件の取り調べを受けた人たちのインタビュー記事を読むと、自分たちの意見を全く取り入れてくれなかったとか、 起きた事実のごく一部だけを取り出されてしまったとか、そんな感想が出てくることが多い。訴訟というものは、決定的な見解の相違を強引に解決するための 手続きであって、相違している見解を崩すために、相手側の弁護士は、事実の削除や追加といったやりかたで、見解の根拠を失わせようと試みる。

訴訟の場や、あるいは外来にごくまれにやって来る「プロ」の人と対峙せざるを得なくなったときには、事実のコントロールに最大の注意を払って、 見解の根拠を破壊されないよう、あらゆる外乱に対して「正直」を貫く必要がある。「正直であり続けるための技術」というものが、 たとえば人質交渉人のやりかたや、訴訟における原告側弁護士と対峙するときの技術であって、両者の方法論は共通している。

米国の訴訟において、原告側弁護士は、しばしば「罠」を仕掛けてくるのだという。「弁護士の罠」というものは、 あれは何かと言えば、「うちのクライアントのために、あなたの見解を吹き飛ばすために、どうかこの事実を認めてくれませんか?」という誘いに他ならないわけで、 そうした誘いというものは、たとえば原則を曲げて、救急外来で麻薬の処方を求めに来る患者さんが使うやりかたと、地続きの技術なのだと思う。