見解の否定と見解の相違

同じ意見の対立であっても、相手の見解を否定することと、相手との「見解の相違」を表明することでは、 意味あいが全く異なってくる。

危機管理の側面からは、衝突は、常に「見解の相違」を取ることが望ましくて、恐らくは、 ある事例に対して、自らの見解を持って臨める人というのは、そんなに多くない。

事実と見解を分離する

患者さんとのトラブル事例において、「ご家族の見解が病院側に一方的に否定された」り、あるいは逆に、 「病院側の見解が、あたかも全ての事実であるかのように伝えられた」ことが、原因の根本になっているのだと思う。

その時実際に起きたことと、その時お互いが感じたこと、「事実」と「見解」というものは、交渉の席に、 一緒に並べられないと、恐らくはトラブルを生む。

訴訟になるような事例では、ご家族はしばしば、「事実が知りたい」というコメントを発信する。 事実というのはしばしば、「ご家族がそう思いたかったこと」であることが多いのだろうけれど、 ご家族の出した見解というものを、単に否定して見せたり、あるいは病院側の見解を、 あたかも事実であるように押しつけたりしてしまうと、交渉のテーブルに、ご家族の見解が 取りあげられる機会がなくなってしまう。

起きた事実をお互いに共有して、お互い相違する見解をテーブルに並べることで、 ようやく今度は、病院側は、謝罪の基準と責任の基準を作ることができる。

共有された事実に対して、ご家族が不満に思う場所があったのならば、その不満に対して、 病院側は謝意を表明すればいいし、病院側が示した見解の中で、「医学的に妥当でない」部分が あれば、その場所について、責任の表明を行えばいい。

謝罪において、「謝意の表明」と「責任の表明」とは区別される必要があるけれど、 事実の共有と、見解の表明とをそれぞれ区別して、同時に提示することで、両者を行う根拠が決まる。 どこまでが謝意で、どこからが責任なのか、どの謝罪までが正当で、どこから先が不当な要求なのか、 ものさしが決まると、意志決定は加速する。

「事実と判断とを峻別する」ことは、戦争を行うときの基本だけれど、このルールというものは、患者さんに何かを説明するときにも、 何かを謝罪するときにも、あるいは法廷を戦っていくときにも、同じやりかたが徹底されないといけないのだと思う。

拮抗してから譲歩する

相手の側が、何らかの意志を通そうと試みて、自分たちの側がそれを受け止める、交渉ごとには定石というものがあって、 意志を受け止めて、自分たちの側も見解を表明して、お互いに拮抗した状態に持っていくところまでは、 定まったやりかたが決まっている。

ぶつかって、拮抗して、このあとで「勝つこと」を目指すのは、病院においては間違いなのだと思う。 「勝つこと」は次善であって、正解は「自らの見解に基づいて負けてみせること」であって、 「勝たされてしまうこと」と、「相手の見解に基づいて負けてしまうこと」とは、どちらも悪い結果しか生まない。

長く入院している患者さんに、そろそろ退院の準備を、なんてお話しするときに、しばしばご家族は、 「もう少し長く置いて下さい」なんて返事を返す。それをそのまま否定してしまうと、今度は「腕に擦り傷が」とか、 「入院したのにむしろ動けなくなってしまった」とか、意志に不満を重積して、もっと大きな力で押してくる。 力ずくで押し返すと、賭け金は一気につり上がって、ろくでもないことになる。

基幹病院級の施設はともかく、一般病院だと、入院をたとえば1週間、療養病棟で延長すること自体は、 その気になれば何とかなることが多い。ただしその決定を、「入院を長くすれば、それだけ病状は良くなっていく」 という、ご家族の見解に基づいて行ってしまうと、今度は退院のタイミングが決められなくなってしまう。

トラブルを回避しながら、次につながる譲歩を行うやりかたというのは、たとえば「○○さんの病状は、 教科書どおりの治療を行った結果として、今は安定していると考えています」なんて、病院側の、 医学的に妥当な見解をまず表明した上で、「リハビリテーションを1週間だけ行って家に帰りましょう」とか、 「1週間という時間を使って、在宅のサービスを入れるようにしましょう」とか、あくまでも医学的に妥当な、 主治医自らの見解に基づいて、何かを決定した、という宣言を行うことなんだと思う。

結果として行われたことは、これはもちろん患者さんのご家族に対する譲歩なんだけれど、 こちらの見解に基づいて行われた譲歩を相手が受け入れることで、結果として、病院側の 「医学的に妥当な見解」というものが、ご家族に受け入れられた形に持って行ける。 1回の譲歩で「次」の可能性を閉ざすことができて、けっこう上手くいく。

見解の不在がトラブルを生む

利害が一致しない以上、同じ事実に対して、見解は無数に生まれて、「見解の相違」というものは、至る所に発生する。

見解の相違それ自体は、だから珍しくも何ともないものだから、切り返しかたや譲歩の引き出しかた、 譲歩することで得られるもの、だいたいパターンが決まっていて、定められた手続きに基づいている限り、 トラブルは大きくならない。

グダグダな状況は、「見解の相違」よりもむしろ、「見解の不在」から発生する。

何かのトラブルを受けて、えらい人はしばしば、現場を前に、報告を受けた事実関係を朗読する。 事実を語って、今度は相手側の見解を語って、「こういう誤解のないように、現場は気をつけて下さい」なんて、「指導」を行う。 これでは残念ながら、指導をする人たちは、実質なんの仕事もしていない。

「ご家族の見解は誤解に基づいている」というのは、見解に対する単なる感想であって、自分たちの側が、 じゃあ同じ事例に対してどういう見解を持って臨めばいいのか、見解というものは、本来は一番上の人自らが 提示して、それが現場に共有されないと、何をどう判断していいのか、基準を作ることができなくなってしまう。

見解の不在がトラブルを生んで、「上」はしばしば現場の不作為を叩いて、相手の側もまた、 直接対峙した現場を叩く。結局一番立場の弱い現場が悪者になって、「上」のプライドは慰撫されて、 万事丸くおさまって、状況は何も変わらない。

責任が重たい昨今、「何も決めたくないけれどどうにかしたい」のは、たしかによく分かるんだけれど。