泳ぎかたと溺れかた
本当に溺れている人は、溺れているというよりも、むしろ静かに沈んでいく ものなんだという。
それを体験したことのない人が「こうだろう」と想像したことと、実際それに遭遇したときに起きることは しばしば異なっていて、見張る側は、もちろんそれに気をつけたり、実際に起きることに即した対策を 行わないといけないのだけれど、「溺れる側」の人は、泳ぎを習うその前に、「正しい溺れかた」の 講習を受けてもいいんじゃないのかなとも思った。
泳ぎかたと溺れかた
高校の体育の授業では、柔道とラグビー、スキーについては、それぞれ受け身のやりかたや、タックルをもらったときの転びかた、 スキーを履いた状態での転びかたを、まず真っ先に習った記憶がある。小学校の頃、近所にスイミングスクールがあって、 泳げなかったから、一時期通ったのだけれど、「溺れかた」というものは、習わなかったんじゃないかと思う。
運転免許を取ったばかりのころ、大学の先輩がたからは、「山に行きなさい」なんてアドバイスを受けた。 普通に運転していたのでは、たとえばブレーキを床まで踏みつけたり、タイヤが滑った状態になって、 逆ハンドルで車を安定した状態に持っていったり、そういう状況を体験する機会はまず来ないから、 それを練習しておかないと、いざというときに対応できないからと。
免許を取って、もう何十年もだけれど、逆ハンドルで救われたケースこそないけれど、 思い切りブレーキを踏む練習、あるいは必要なときに、ためらわずにクラクションを鳴らす 「練習」みたいなものは、恐らくはいろんな場面で、役に立っている。ブレーキを踏まないと 事故なのに、ブレーキを「静かに」踏んで事故を起こした人だとか、クラクションを鳴らせば 避けられた事態を、周囲に「配慮して」、結果として事故になったケースとか、きっとあるのだろうと思う。
溺れている人というのは、苦しそうにしたり、暴れたりするのではなくて、むしろ静かに沈んでいくように 見えるのだという。助ける側が、それに気がつけばいいのだけれど、「溺れそうになったら、息のあるうちに 叫んで助けを呼びなさい」なんて講習会を行って、実際に「大声で叫ぶ」練習というものを行うと、 叫べる人も出てくるのではないかと思う。溺れるというのは緊急事態だから、叫べないケースもきっと多いけれど、 そう習って練習しないと、やっぱりたぶん、叫べる人も叫べない。
ワーストケースの伝達は大事
ワーストケースというのは、不運はもちろんだけれど、教えられるべき何かがきちんと伝えられないと、 単なる不運が、取り返しのつかない事故へとつながってしまう。
「失敗学」の話題で、世の中には、「偽のプロ」と「本物のプロ」がいるのだという。正しくできる人は「プロ」を名乗って、 あらゆる事例を経験して、悪くなった状況を切り抜けてきた人はプロだけれど、 正しいやりかたしか知らない、状況が悪くなったときにどう対処していいのか、実は経験のない人も、 やっぱりしばしばプロを名乗る。
「偽のプロ」は、正しいやりかたしか知らないから、そういう人に習うと、たぶん最初に「正しいやりかた」が 説明されて、厳密に、それに従う人が、「いい生徒」と認定される。あるいは世の中には「溺れかた」から 教えられる人がいたとして、溺れた経験から出発して、泳法にたどり着いた人というのは、 恐らくは「溺れかた」から教えるか、少なくともどこかで、「そもそもどうして泳ぐのか」という話題を 入れるのだろうと思う。
「偽のプロ」と「本物のプロ」との見分け方として、習う側からみれば、それは「泳ぎかた」から教える人と、 「溺れかた」から教える人との対比として観測できるだろうし、教える側からみて、 自分は果たして溺れかたを教えられるのかどうか、溺れたことはないにしても、 溺れた自分を想像して、それを切り抜けるための備えが自らにできているのかどうか、 教える人は自問するのが大事なんだと思う。
正しいやりかたのこと
高校生の頃、問題の解きかたは習ったけれど、受験の乗り切りかたみたいなもの、 何を使って勉強して、どんなスケジュールで勉強すべきなのか、いつ頃までに、 どんな問題集をこなしているのが「正しい」のか、受験校と呼ばれる高校にいたけれど、 そういうものは、先生からは習わなかった。
学校ではその代わり、「卒業生受験体験記」という小冊子が2年分、けっこうな分量になってるのが配られて、 これがとても役に立った。
十分に小さく切り分けられた問題には「正解」があるけれど、たとえば「受験勉強を乗り切る」みたいな、 漠然としすぎた問題に、「これ」という正解を示すのは難しい。「これをやらないと確実に失敗する」何かを 指摘することはできるけれど、正解のない問題に、「こうだ」と無理矢理正解を決めたところで、 それに合わない人にとっては、その正解は、むしろ成功を遠ざける。
「受験を乗り切る」みたいな大きな問題には、だから「これ」という正解がない代わり、 正解というものは、ある程度の幅を持った、中心を持たない、群れのようなものとして記述すべきなんだと思う。 どれが正解というわけではないけれど、群れの中に入っていれば、たぶんどこかにたどり着く。
大きな受験校の武器というのは、「群れを記述できる」だけ、十分な人数がいることが大きいのだろうと思う。 1学年1500人、事実上全員が大学受験を目指して、7割ぐらいが現役でどこかに入ってたはずだから、 群れのサンプルとしては、これは相当に大きな気がする。
もっと規模の小さな高校で、たまたまその学年にいた「神童」が成功モデルになったりすると、 その学校にはもしかしたら、「○○高校流」の正解みたいなものが、受験を乗り切るみたいな、 大きな問題に対して、正解として提示されてしまう。それが自分に合っていればいいけれど、 そうでないと、やっぱりたぶん、うまくいかない。
世界でそれだけしかない価値を目指すような人はともかく、成功モデルというのが、 受験や資格に合格することみたいな、「群れがたどり着く場所」として記述できるのならば、 大きなバンドワゴンに乗っかる意味というのは、だからあるんだろうと思う。
「いろんな人から話を聞く。できれば成功している人から、なるべくたくさん」というのが大切で、 平均を抽出するのではなくて、生データでたくさん見ることが、恐らくは大切になる。 雲と群れとは、似ているようでずいぶん違う。
「溺れかた」を最初に習って、たくさんの「泳げる人たち」と、群れの中で一緒に泳いで試行錯誤するような やりかたが、特に「大きな問題」に対する解答を探すときには、正解に近いんじゃないかと思う。