通過儀礼が事後的に合理化する

機能の豊富さだとか、造形の緻密さだとか、何かを「好みだ」と判断するときの、 合理的な理由というものは、けっこうな割合で、後付けされるものなんだと思う。

判断というのは、やっぱり不合理に行われることが多くて、人間は結局「好み」で いろんなものを決定するけれど、何かを好きだと判断したとき、何らかの通過儀礼を そこに挟むと、「好きの閾値」が大いに下がるような気がする。

犬の足形を作った

休みに旅行に行って、犬の足形をとってきた。

行った先で配られていた、「ペットと一緒には入れるお店」のリストに、たまたまそういうサービスを 行っている工房があった。粘土の板に、飼い犬の足形を押して、陶板に焼いてもらって、 送料込みで3500円。

陶芸作家の人が一人でやっている、ごく小さなお店だったのだけれど、犬も「お客さん」扱い してくれる工房は他にはなかったからなのか、陶板のバックオーダーはたくさんあって、 今から足形をとって、出来上がりはずいぶん先になります、なんてお話だった。

陶器を買った

犬の足形を陶板に焼いてもらって、このとき一緒に、そこで販売されていた、 いろんな陶器を購入した。

どちらかというと「奇妙に」近い、独特な形をしたコップやお皿がたくさん売られていて、 あえてそうしているのだろうけれど、どの陶器も微妙に歪んだ造形で、同じ形のものは 一つもなかった。

こういうのは、それが好きなら「作家性」だし、それが嫌いなら、単なるいびつな陶器なんだけれど、 その工房から、いくつかのティーカップだとか、マグカップだとかを購入して、 今はずいぶん気に入って、それを普段使いしている。

好きになると合理的に聞こえる

「きれいな形よりも、手になじむ形を目指しているんです」だとか、 「ろくろを回して、おもしろいと思った形を目指すと、どうしてもこうなっちゃうんですよね」だとか、 作家の人が説明してくれた。

こんな言葉は多分にテンプレート的で、恐らくは陶芸作家の人たちは、10人が10人、 大体同じような内容を語るんだろうけれど、このときはこの人の言葉がずいぶん響いて、 結局いくつかの食器を購入することになった。

自宅の周囲にも、何件か、食器を扱うお店がある。整った磁器も販売しているし、 有田焼だとか、備前焼だとか、もっと「有名な作家」が作った食器、 やっぱりわずかにゆがんだ、「作家性」みたいなのを感じさせるものは、 以前から購入することはできた。

ところがこういう人たちの「作家性」は、自分たちにはどうにも響かなくて、 ゆがんだ食器は重ねられないし、こういうのはどこか不安定で、 時々何となく貧相に見えて、あまり食指が動かなかった。

もっと大規模な工房と、今回買った個人の工房と、陶器を作っている数でいったら、 恐らくは100倍以上の開きがあるのだろうし、それを工業製品としてみたときには、 たとえ同じ手作りであっても、たくさん作っている工房のほうが、品質はより優れている 可能性が高いのに、今回購入した陶器製品は、形だとか、手触りだとか、 たしかに説明されたとおりに手になじんで、見た目に面白く思えた。

通過儀礼のこと

専門店で売られている陶器製品に魅力を感じることができなくて、観光地の、 個人の陶芸作家の作品に、購入に至る魅力を感じることができたきっかけというものは、 やっぱり「犬の陶板」だったのだろうと思う。

犬の陶板を注文するという、こういう機会でもなければ絶対にやらないような、 不合理な行動というものが、恐らくは通過儀礼として、それからしばらくの間、 その人の振る舞いを書き換える。

不合理な、普段ならやらない行いをあえて行ったあとでは、おそらく人間は、 そこから先の行為を、可能な範囲で合理化しにかかる。

不合理な注文を行ったあとだから、そこで販売されている商品は「いいもの」に見えたのだろうし、 奇妙にいびつな、普段はあまり見ることのない、「手になじんだ」を目指したという、 独特の食器というものが、そのときは、今でもそうなんだけれど、やけに合理的な、 魅力的なものに見えて、結局今もそれを使っているのもまた、通過儀礼の効果なのだと思う。

通過儀礼を意図した不合理を、あえて顧客に押しつけることで、そこからしばらく、 その人の財布は緩んで、恐らくは満足度も高くなる。

こういうのは何かに応用できそうな気がする。