柔軟さのコスト

診療というものも交渉の一形態であって、交渉ごとに、自分が「縦深」というものを利用できるようになったのは、 まだまだ最近のことのような気がする。

縦深を利用した、柔軟な対応を行えるようになると、外来でのトラブルが減る。幸いに、まだそうなったことはないのだけれど、 何か医療事故が起きたときに、身内の人に状況を説明するときなんかでも、最初から「妥協の余地」みたいなものを前提に 話しあいができるのならば、状況は恐らく、ずいぶん楽になる。

外来の考えかた

研修医を終えて数年間は、外来という場所を、一本の線のようなものだと考えていた。 その線は死守すべきラインであって、そこを破られることを、どこかで「負け」だと認識していた。

「何とか外来で頑張ってみましょう」なんて言葉は、当時の自分たちはよく使っていたし、今でもいろんな近隣施設で、 「外来で頑張った」結果として、その施設からうちに来ました、という患者さんも多いから、外来というものを、妥協の余地を持たないラインであると 考える文化というのは、それほど特殊ではないのだと思う。

外来を「防衛ライン」みたいなものであると考えてしまうと、そこを「破られた」ら、そこから先のプランが想像できない。 想像ができないものは怖いし、誰だって怖いものは避けたい。結果としてしばしば、症状の原因がよく分からない、 「怖い」患者さんに対して、主治医は「外来で頑張る」提案を行って、それが責任回避につながるんだと、恐らくは信じてしまう。

縦深の利用に必要なもの

物理的にベッドがないならどうしようもないのだけれど、「入院したのに良くならなかった」ケースよりも、むしろ 「入院を希望したのにそうしてくれなかった」ケースのほうが、トラブルになる可能性が高いのだと思う。

病院という道具を、外来、外来ベッド、入院ベッド、重症個室、高次医療機関という、縦深性を持った構造であると認識できると、 受け止めるのが前提の、柔軟な外来対応ができるようになる。

縦深を利用するのにはいくつかの前提がいる。

ベッドを利用できないといけないから、主治医には、入院の調整から転院の折衝まで、全て自分の権限で行えないといけない。 研修医の時期は、そもそもこれが無理だから、「柔軟な外来対応」は、原理的に難しい。

「外来で頑張りたい」と思うような患者さんというのは、その場所では何がおきているのかはっきりしないことが多い。 分からない患者さんの入院を引き受けたとして、「不明」に対するプランがなければ、結局何もできないから、 いろんな「不明」状況に対して、自分ならどういう検査プランを組んで、入院したら誰に相談するべきなのか、 あらかじめ考えておかないといけない。

医療者側が、患者さんに対して「退く」ことを前提にプランを組めると、お互いの関係に柔軟さが生まれる。 退くという行為が、妥協による敗北でなしに、プランに基づいて行われた後退になる。

柔軟な対応というのは、だから主治医の負担はむしろ増えるんだけれど、状況をコントロールできる割合ははるかに大きくできて、 こちらが正解に近いのだと思う。

受け止めることでできること

外来から入院ベッドへ、さらにその奥へと、応対の場所を移動することで、今度は主治医の側に、 「こうしましょう」という提案が出せるようになる。

外来で何とか頑張る、そこを破られるとノープランというやりかたは、後がないから、患者さんの言葉を全否定する状況を避けられない。

患者さんが、たとえば入院だとか、精査だとかの希望を伝えてきたときに、主治医の側から、その希望が叶った前提で、 こちら側が行うであろうこと、そこから先のプランみたいなものを、その場で提案できるようになると、交渉の空気が楽になる。

「入院させて下さい」「外来で頑張りましょう」をやると、トラブルの種ができる。「入院させて下さい」「入院しましょう。 こんな流れで状況を見て、いついつに結果をお話しして、それがこうなら、次にこうしましょう」みたいな話をその場で返せると、 主導権は常に主治医の側にあって、トラブルは回避される。

人間関係を作っていく上で、こういうのはそれなりに大切だと思うんだけれど、大学ではあんまり習わない。

受け止めるには縦深が必要

たとえば医療過誤訴訟になって、結果として医療者側が「勝った」ような事例であっても、 じゃあ本当に病院側の瑕疵がゼロかと言えば、やっぱりそんなことはないのだろうと思う。

それはたとえば、ご家族がそう望んだタイミングよりも、検査を出すのが15分ぐらい遅かったとか、 熱を出した前の晩、患者さんの布団がずれていたとか、事故には直接関係がない、 少なくとも裁判の席で、「それは関係ない」とされた事例というものも、瑕疵を探す側からみれば、 それはやっぱり瑕疵であって、それがそう見えたのならば、病状説明の席では、 ご家族は、それを受け止めてほしいのだろうと思う。

何か事故があったときに、病院側で交渉に臨む人は、妥協の余地というものが、最初から存在しないことがある。 今の状況は分からないけれど、昔の公立病院なんかだと、トラブルが起きたとき、「当事者同士の話しあいでよろしく」なんて、 病院当局が突き放す。縦深ゼロ、ライン防衛か全滅か、という状況で、下手するとその日に泊まってた研修医が、最前線に1人残されたりする。

たとえわずかでも、主治医に縦深が預けられているのなら、「ここは瑕疵ではないですか?」という質問に対して、 「そこについては申し訳なく思っています」と返すことができる。縦深ゼロだと、これが「医学的には関係ないと思います」という 答えかたしかできない。これではトラブルにならないわけがない。

柔軟な対応にもお金がかかる

縦深ゼロで交渉に臨んだ相手から、「申し訳ない」というほんの一言を引き出すために、ご家族は結局弁護士の手を借りて、 訴状を病院に送らないと、話が前に進まない。こういう事例を避けるのに、医療者側が「司法が医療を崩壊させる」なんて叫ぶのは、 やっぱり何か違う。大げさに過ぎるような気がする。

本来はたぶん、病院側が、交渉する人にある程度の縦深を預けるようなやりかたを考えるべきなんだと思う。 研修医は無理だけれど、部長級の医師に、たとえば1000万円ぐらいまでの慰謝料の裁量を与えるような。

この状況を外からみると、なんだかご家族を「お金で黙らせる」ように見えてしまうけれど、 受け止める側が一言「申し訳ありません」と言えるためには、やっぱりお金が必要で、 「言葉は無料だから無償」という前提で交渉に臨ませるのは、やっぱり間違っているのだろうと思う。 「柔軟にやる」には、やっぱりそれだけのお金と、柔軟さを生かせるだけの技量というものが欠かせない。

口先だけの「柔軟な対応」というのは、要するにケチであって、「お金は払わん。俺に責任はない」と同義になる。 柔軟はお金で購入する必要があって、訴訟のことを考えれば、それは圧倒的に安価に購入できる。 恐らくは、せいぜい「相場で10万円」ぐらいのお金を惜しんで、ご家族と全面戦争、 病院どころか県が引っ張り出されて訴訟になったような事例というのは、きっとあるんじゃないかと思う。

自分たちはそういう意味で、交渉のやりかたを習わないし、お金の使いかたも習ったことがない。 縦深を預けられたとしても、じゃあそれを使いこなす方法を習う機会もない。このへんは、医療者側にも まだまだできることがあるし、ここは米国じゃないから、ああならない道も、まだあるような気がする。