名前が実体を作り出す

「マナーを守りましょう」だとか、「患者さんに敬意を持って接しましょ う」だとか、理念を毎日唱えても、人の行動は変わらない。

何かを変えるときには、考えかたを改めて、結果として振るまいが変わっ ていくのが正いけれど、たいていそれは上手くいかない。

ある振るまいかたを外側から強制することで、たとえば特定の単語を使用 禁止にしたり、特別な会話のルールを作って、病棟にいるときにはそれを 守ってもらうようにすると、面白いことがおきる。

変更されたのは「外面」 だけなのに、それを続けて慣れてしまうと、その人の考えかたが、根本から 書き換わってくる。

「言って」を「教えて」に言い換える

病棟では普段、患者さんに対して、「何かあったら言って下さい」という 言い回しを、当たり前のように使う。

たとえば「言って下さい」の代わりに、「教えて下さい」という言葉を使う というルール作ると、「言って」が染みついているものだから、「教えて」と 発音するときに、頭の中で単語が衝突して、言葉がそこでつかえてしまう。

「言って」という、少しだけ権威的な響きのある単語は、権威的な姿勢に 強く結びついている。単語と姿勢とが不可分だから、姿勢を変えずに言葉だ け「教えて」にしようとすると、単語が衝突する。

「教えて」をよどみなく発音しようと思ったら、結果として、頭の中で、 相手に頭を下げるような姿勢を取らざるを得なくなって、「教えて」を日常 的に使用できるようになった頃には、マナーとして毎日唱えていた理念が、 けっこう高い確率で達成できる。

個人的には、「本質」という言葉を使わないよう、普段から気をつけてい る。たかだかこれだけのことで、おしゃべりをしていても、考えなくてはな らないこと、相手に説明をしなくてはいけないことが、ずいぶん増える。

会議の席で、「現実的には」だとか、「それが現実だ」みたいな、「現実」と いう言葉の使用を禁じると、何か問題点にぶつかったときに、諦めないで、 それを前向きに解決していく方向に、チームの空気が変わっていく。

「善悪」を「隔たり」で表現する

インターネットで、誰かが日記に「あいつは頭が悪い」なんて書いたら、 「あいつ」と名指しされた人は不快だろうし、人がたくさん集まるサイトな ら、たぶん炎上してしまう。

「あたまが悪い」だとか、あるいは「すごい」という言葉にしても、基準 になるものさしがないと、感覚は共有できない。ネット世界にも、実社会に も、感覚には本来、基準が存在しないから、「世間」という、共有できる何か を無理矢理それを仮想することで、自分たちは感覚の共有を行おうとする。 ところがそれは仮想でしかないものだから、共有できないものさしは、ト ラブルの原因になる。

あの患者さんのご家族には、「些細なこと」ですぐ怒られるから気をつけ たほうがいいだとか、あの患者さんは「痛がり」で、ナースコール頻回だか らどうにかして下さいだとか、病棟では時々、こんな会話が交わされる。ど のぐらいが些細であって、どこからが痛がりなのか、こういう感覚は、共有 できるわけがないのに、暗黙のうちに、それができることになっている。こ れは危ないと思う。

見る位置が異なっている人同士であっても、お互いの「隔たりの大きさ」 は、絶対的な距離として共有できる。

病棟では最近、細かいところでクレームをつけてくる患者さんだとか、あ るいは説明に納得してくれない患者さんを、「受け止めかたの隔たりが大き い」患者さん、と表現するようにしている。

こういうのも言葉遊びには違いないのだけれど、「あの家族はクレーマー だ」とか、「あの患者は理解が悪い」といった表現の代わりに、「隔たりの大 きさ」という言葉を使うことで、哄笑の対象になりかねない、「理解が悪い」 という言葉は、「隔たりの大きさ」という、克服すべき目標になって、患者さ んに対する病棟の姿勢みたいなものが、書き換わる。