交渉における先手というもの

外来という場所は、患者さんや、そのご家族と、主治医である自分たちとが初めて遭遇する場所であって、遭遇という状況においては、「先」を取ることを、常に考えておかないといけない。

患者さんの側、特にご家族に「先」を取られてしまうと、治療の主導権が、主治医から奪われてしまう。もちろん全ての決断を行うのは医師だから、主導権は返してもらうことになるのだけれど、こういうときに状況が思わしくない方向に向かってしまうと、あとからトラブルになる。

予期しない遭遇は後手に回る

たとえば多発外傷の患者さんを救急外来で受けて、外科チームがそろうまでの間、主治医が無為に立っていたところを、関係者以外は出入りを想定していない、救急車用の入り口から、ご家族が駆けつけたりすると、いきなり現場に出くわしたご家族は驚くだろうし、現場はもちろん混乱する。主治医の側は、言わば奇襲を受けたようなもので、想定していない事態に遭遇すると、状況は後手に回ってしまう。

病院というのは、そもそもが自分たちが働く場所である以上、現場の予測不可能性は、出来るだけ追放しておかないといけない。鍵をかけられる出入り口は、救急隊が入ったら鍵をかけておかないといけないし、外来の待合室にも誰かを立たせて、身内の人たちが入ってきたら、それが事前に分かるよう、手を回しておくことが望ましい。

常に動き続ける

「先」というものを考える上で、自分たちが待つ側に回るのは良くないことで、ご家族から診た主治医は、常に「動いている」状態であることが、望ましいのだと思う。

たとえば心肺蘇生を行っているときには、主治医はその場のリーダー役として、心肺蘇生から一歩退いた場所で立つことも出来るし、心臓マッサージに参加することも出来る。心肺蘇生の最中、どこかのタイミングで、ご家族に状況を説明する必要があるのだけれど、このときに、フリーになった医師が冷静に説明を行うのと、心肺蘇生真っ最中の医師が、汗まみれで状況を説明するやりかたと、恐らくは後者の方が正しい。

「待ち」の状態に入っている人間には、誰もがたぶん、自然に命令を入れようとする。命令に対する反応は、もちろん受ける側の自由だけれど、それを断ってしまうと、患者さんのご家族に、変なメッセージを返してしまう可能性がある。主治医の身体が動いている状況を見て、相手が「待ち」だと認識する人は、たぶん少ない。ところがたぶん、たとえ主治医がどれだけ一生懸命考えていたところで、状況をじっと見つめて動かなければ、「一生懸命やっている」というメッセージは、恐らくはあまり上手に伝わらない。

主治医が「待ち」に入っていると認識されてしまうと、たとえばご家族から、「こうしないんですか?」とか、「どうしてこうしてくれないんですか?」みたいな質問が出て、ご家族が、状況の指揮権を奪ってしまうことがある。お互い興奮しているから、一度こうなってしまうとここからトラブルが起きやすいのだけれど、医師の身体が動作中であると、恐らくはそれだけで、こういう事態を避けられる。

それがたとえポーズにしか過ぎなくても、主治医は消毒していたり、包帯を巻いてたり、心臓マッサージに参加してみたり、何か患者さんのために動いている状況で、ご家族との遭遇を行うと、恐らくはそこから先の話がスムーズになる。

もう少し冷静な状況、入院している患者さんの病状説明を行うときなんかもたぶん同じで、「今日はこういう話をします」なんて、医師の側から切り出してから会話を行った方が正しい。ここで「待ち」のメッセージを、「今日はどういうことを聞きたいですか?」なんて切り出してしまうと、状況のコントロールが遠くなる。

遭遇には明確な序列がある。

相手に待ってもらって、こちらが迎えに行くのが最上、相手がやってきて、こちらが動いている状況が次善、こちらが停止しているところに、相手がやってくるのが最悪で、遭遇というものにはたぶん、明確な序列が付けられる。

主治医の側が「受け」に回ってしまった状況であっても、たとえばそこから検査をオーダーして、「水入り」を宣言する、一度お互いの時間/空間的な距離を置いて、今度はこちらの側からご家族を迎えに行くと、状況を仕切り直せる。

あるいはたとえば、外来の応対が今ひとつで、患者さんに不愉快な印象を持たれてしまったようなときであっても、外来ブースを出た患者さんは、必ず待合室で会計を済ませるために、待っている。「待ち」に入っている患者さんに、医師の側から出向いて謝罪したり、あるいは症状の注意点や次回のフォローについてのお話をさせてもらったりすると、悪い状況をひっくり返すきっかけが作れたりもする。

このあたりの話題は、五輪書にだいたいそのまんま書かれているんだけれど、武蔵の言葉はけっこう役に立つような気がする。