感情労働とコントロール

交渉の目標は「状況のコントロール」であって、いろんな人との応対が必要な感情労働において、コントロールされた状況というのは、「いつでも勝てるけれどあえて勝たない」状態の維持なんだと思う。

誠意では足りない

感情労働分野において必要なのは、そこで働く人の、内的な誠意だとか、前向きな姿勢なんかではなくて、「いつでも勝てる状況」というものなんだと思う。それを想定して、それを維持できるような現場の振るまいかたを規定して、初めてたぶん、外からみたその情景が、「誠意を持った現場」に見えてくる。

「病院でのクレーム対処」みたいな本は、それでも時々読むんだけれど、作者の人が過剰に前向きというか、誠意が大好きな人たちが、現場に誠意をといているところがあって、なじめない。

性悪説に立った交渉の本というのもたしかにあるんだけれど、「相手を3分でねじ伏せる」だとか、今度は露悪に傾いて、それもやっぱり、何か違う。ねじ伏せてしまったら、状況はコントロールできないし、ねじ伏せる本が結局何をしているかと言えば、「警察を呼べ」になっていることがほとんどだったし。

「人と人とは分かりあえるんだよ」みたいな価値を前提にして、どれだけ内的な誠意を磨いたところで、分かりあえるかどうかは、その時になってみないと分からない。ねじ伏せるやりかたは、よしんばそれを知っていたところで、感情の切り売り機会を減らせない。

コントロールされた状況

コントロール出来ない状況の中で感情労働を行うと、感情の切り売りになってしまう。

「切り売り」はお客さんが求めているものでもあって、暫定的な解答でもあるんだけれど、切った感情は戻らない。切り売りして、売り切れて、結局その人がすり切れて、現場はいつか、回らなくなる。

コントロールされた状況では、利害の対立が生じて、妥協の余地がどこにもなかったときには、決断をすれば、いつでも相手に勝てる。それだけの準備を整えて、ようやくはじめて、感情労働は、切り売りでなく、労働になれる。

「いつでも勝てる」が実現されることで、状況はコントロールされる。「いつでも勝てる」が実現して、今度は負けてみせること、「戦いを避ける」という選択枝に、意味が生まれる。無意味な敗北は感情の切り売りだけれど、意味のある敗北は、コントロールの維持に必要な、単なる手続きで、手続きは疲れるけれど、感情の摩耗は最小限にできる。

たいていの場合、ルールはお互いに公平だから、「いつでも勝てる」状況を作り出して、それを維持するためには、常に気を配る必要がある。

「いつでも勝てる」を法律で定めることなんて無理で、どれだけ頑張ったところで、「お客さんよりも自分たちの側が気を配り続ける限りにおいて、いつでも勝てる」状況を生み出せるのがせいぜいで、この状況を維持するためには、常に気を配って、あらかじめ打ち合わせた振るまいかたを徹底して、穴を見つけたら、素早く謝罪して、穴を塞いでしまわないといけない。

気配りは大変で、やっぱり疲れて、立場の上であぐらをかける瞬間なんて来ないんだけれど、この大変さには、給料が出るし、こうして維持されたサービスに対して、お客さんは対価を支払う。感情労働というのは、こういう状況の上で、初めて成り立つ商売なんだと思う。

抑止力の使いかた

「いつでも勝てる」が維持された状況というのは、要するに抑止力であって、一番シンプルなやりかたは、やはり「用心棒付きの飲み屋さん」というモデルなんだと思う。飲み屋さんは羽目を外す場所だけれど、やり過ぎたら、用心棒が飛んでくる。それは乱暴だけれど、恐らくは一番分かりやすい抑止力であって、たぶんそこそこ上手く機能する。

ところが病院に用心棒を置くわけには行かないから、このあたりは、別のやりかたを考えないといけない。それは結局のところ、病院が提供するサービスというものを、「最低限ここ以上、最大ここまで」という、ある公差の範囲できちんと提供することであって、内的な誠意に従った、俺様定義で押しつけた丁寧さなんかじゃなくて、行動規範みたいなものを、全ての職員が共有することで、恐らくはその情景が、外からみると「誠意」や「熱心さ」として写るのだと思う。

抑止力というのは地味な神経戦で、運用する人たちが使いかたを間違えると、効果は簡単に失われてしまう。

湾岸戦争前夜、サウジアラビアに抑止力として展開した米軍は、それを維持することが、しばしば困難になったのだという。たとえばそれは、大統領の態度があるときイラクに対して軟化したように見えたり、アメリカの議員がインタビューに答えて、「米国は決して攻撃はしません」なんて答えたり、軍隊に指示を出す立場にある、文民を代表する人たちが、現場に展開する米軍を、言わば背中から撃ってしまうから。

コントロールの維持には覚悟が必要

せっかくの抑止力は、何度も台無しにされかけて、一方で、「こうなったら早期の開戦を」なんて声が、議員の側から聞こえてきたんだという。抑止力は運用が面倒で、議員の責任は重大で、その割に、効果を実感しにくい。状況のコントロールが達成されたところで、それは要するに「何もおきない」ことだから、つまらない。開戦というのはあるいは、もっと「かっこいい」決断で、戦場から遠い人たちは、とりあえず決定をしてみたくなるのかもしれない。

こうした状況のなか、統合参謀本部議長だったウィリアム・クロウ海軍大将は、議員の人たちを前に、こんな演説を行ったんだという。

「私の見るところ、にらみを利かせるだけでは敵は引き下がらないという結論に飛びつくのは、祖国を過小評価していることになり…、実に不思議なのは、かつて西ヨーロッパで我々の忍耐が功を奏し、ときに信念を貫き通すのが困難な国際問題を処理するための、よりすぐれた方法であることを我が国の歴史の中でももっとも鮮明に見せつけた例を作った一方で、何人かの安楽椅子戦略家たちが、イラクに対する早期の攻撃を提言していることです。1950年から60年代に、ある人々が、ソ連に対して同じような攻撃を仕掛けるよう提言したことを思い出す価値はあると思います」