接遇の交戦規定

対価をもらってあるサービスを提供する仕事において、危機管理のありかたとして、「平等である」というのは外せないし、平等を実現するためには、そもそも自分たちが提供しているサービスとは何なのか、それを文章化して、全ての職員で共有しておかないといけないのだと思う。

接遇の訓練は、危機管理の側面として学ばれる必要がある。「正しい接遇」というものは、お客さんのためというよりも、むしろ現場の職員を守るために、有事の際に、マネージャーに相当する人が、お客さんに「ここから出ていけ」というカードを切るために、欠かせないものになる。

良さの過剰は悪徳

特定のお客さんに不快感を与えた職員は、プロ失格なんて言われるけれど、特定のお客さんにだけ、想定していた以上の満足を与えてしまった職員もまた、同じようにプロ失格であって、その人の振る舞いは、見直されないといけないんだろうと思う。

「誠意を持って、丁寧に対応しましょう」だとか、「お客さんの心境になって、自らの振る舞いを正しましょう」みたいな、道徳文脈で接遇を教えるやりかたは、やっぱり何か違うような気がしている。あのやりかたで、たしかに現場の空気は良くなるかもしれないけれど、文句を言う人はやっぱり文句を言うだろうし、道徳文脈の講習会を受けたところで、現場はたぶん、そういう人たちから、自分の身を守れない。

丁寧さとか、礼儀みたいなものを、誠意みないな量を積む価値文脈に乗せてしまうと、「俺の方がもっと誠実」みたいな、独りよがりなやりかたをコントロールできない。よしんばその人が、相性のいいお客さんに「いいサービス」を提供できたところで、結果としてたぶん、それを見た他のお客さんが、「どうして俺にはあれがないんだ」なんて、サービスに対する不快を表明してしまう。

礼儀正しさには公差が必要

礼儀というものが、「正しさ」という、プラスマイナス両極端に抑制を呼びかける言葉とセットになっているのは、過剰さを戒めている側面というのがあるのだろうと思う。サービスというものを、過剰にも不足にもしない、ある公差の範囲内に、おさめることが出来て、初めて達成されるものというのがあって、接遇の講習会では、むしろそういうことを教えてほしいなと思う。

過剰さを放置すると、サービスの大義が崩れてしまう。

たとえば過剰に「よくやる」兵士がいたとして、戦争になって、その場所に居合わせた民間人を皆殺しにしてしまったら、軍隊の大義は失われて、戦争は単なる虐殺になってしまう。過剰さは、不足と同じぐらいに悪いことであって、たとえそれが「丁寧さ」みたいなものであっても、基本は一緒なのだと思う。

「一流ホテルではゴミ箱の中身を1週間は保存している」とか、「あるホテルでは、お客さんが車を降りたその時から、フロントマンはその人の名前をみんな把握している」とか、ああいうのは「丁寧だから」そうしてるんじゃなくて、そのホテルではそういうマニュアルを作って、それを徹底的に訓練しているだけなんだ、ということに注意する必要がある。丁寧さが過剰になっても、同じ状況に行き着くことは可能だろうけれど、それが全てのお客さんに、平等に提供できないかぎりは、こうした過剰さは、むしろトラブルの種になってしまうだろうから。

「ここから出ていけ」というカード

サービスの品質を、一定の公差に収めることで、初めてたぶん、「ここからでていって下さい」というカードが切れるようになって、組織の危機管理を行う上で、常にこうした切り札を切れるようにしておくために、そもそも接遇というものは、訓練されるべきなんだと思う。

「お客さんはこういうことを望んでおられますが、うちの設備と人員は、そもそもそういうサービスを提供するようには出来ていませんから、他の施設を当たって下さい」なんてやりかたが、組織の側からみて理不尽な要求を突きつけられたときの、恐らくは唯一最強の切り札になる。ところがこんなカードを切るのは難しくて、正しくカードを行使するためには、いくつもの前提が欠かせない。

クレーマー」なんてレッテルを貼られた患者さんの家族がいたとして、果たしてその人たちが、人としてそれほどまでに理不尽なことを突きつけているかといえば、外からみるとそうでもなかったりする。現場が「ちょっと」頑張れば、それはしばしば、十分達成できそうに見えてくる。もっと具合の悪いことに、同じその施設で、その「ちょっと」いいサービスを、同じ対価で享受しているように見える患者さんがいたりする。「クレーマー」なんて名指しされた人から見れば、これはもちろん理不尽だし、自らも同じサービスを受けられてしかるべきように思える。こういう状況で、「出ていけ」なんてカードをちらつかせようものなら、ちょっとした不満が、大問題へと発展してしまう。

なんとなく相性の悪いお客さんがいて、その時の気分で出て行けなんて言う店主の店は潰れるし、少しだけ反抗的な生徒がいたとして、その子の親御さんに、いきなり退学をちらつかせたりしようものなら、大問題になる。「お前はここからでていけ」というカードは、正しく使えば極めて強力だけれど、切りかたを間違えると、自らの首を絞めてしまう。

接遇の講習会というものが、そもそも何のために必要なのかといえば、組織を守るため、「出ていけ」というカードを、必要なときに、一番望ましいやりかたで切るためであって、切り札が切り札として機能することで、初めて現場は、余裕を持ってお客さんと接することが出来るようになる。「お客さんのため」というのは結果であって、目的ではないのだろうと思う。

接遇には交戦規定が必要

暴力の応酬は、お互いの兵士が交戦規定に従って行使することで、戦争という、政治の延長として再定義される。

交戦規定が無かったり、曖昧な状況で、その軍隊が司令部の想定を超えて「上手くやった」ら、それは戦争でなく、一方的な虐殺になってしまう。敵とは何か。銃を撃つための条件とは何か。戦いの目的や、勝利をどう定義するのか。何を持って闘い、戦闘を停止するのか。こういうものが文章として示されて、それを兵士が共有することで、虐殺は初めて戦争になれる。

妄想だけれど、恐らくは一流ホテルの接遇マニュアルと、軍隊が作る交戦規定というのは、文脈が似ているような気がする。判断の基準が明快であって、現場がやるべきことが具体的に示されていないと、こういうものは、決して上手くいかないだろうから。

そういうことは滅多にないんだけれど、それでも数年に1回ぐらい、「うちの施設ではこれ以上は無理です」なんて、ぎりぎりの交渉をせざるを得ないときがあって、こういう状況で、病棟のどこかで、「これ以上」を普通に受け取っている患者さんがいると、そもそもの交渉の土台が崩れてしまう。

ところが看護師さんたちは、しばしば過剰に熱心で、交渉のテーブルに着いている目の前の患者さんには「これ以上は」なんて言っている横で、他の患者さんには想定以上のサービスが行われている可能性というのが否定できないから、主治医が交渉の切り札たるカードを切って、そのカードが自らの首を絞めてしまう状況というのが、十分にありうるんだろうと思う。

個人的にはだから、熱心さとか、誠実さで進められる接遇講習会というものを、とてもおっかなく思っているんだけれど、接遇というものの「交戦規定」に相当するものは、今はちゃんと教えられているものなんだろうか?