いい人の脆弱性

今は誰もがネットワークでつながっていて、自分がどれだけ気をつけたところで、つながりを持った誰かから、漏れてはいけない情報は、簡単に漏れてしまう。

情報が漏れたところで、そもそもそれが問題にならないような振る舞いをしていれば大丈夫なはずなんだけれど、「漏れた」という事実を受け取る側も、やっぱりネットワークでつながっているものだから、「こんな話を聞いた。御社は一体どうなっているのか」なんて、攻撃者が、別の誰かにそのことを告げたときに、その人が、ネットでの自分の振る舞いを、額面どおりに受け取ってくれるとは限らない。

知らない人ほど恐怖する

ネットに疎い人は、ネットを気持ち悪いと思うし、ネットの評判を必要以上に怖がる。

掲示板での叩きみたいなものは、たいていの場合は他愛のない悪口で、笑い飛ばせば、話はそれで終わる。よしんばそれが、犯罪性を持ったものであったとしても、ネット世間は忙しい。黙って口をつぐんでいれば、1年もやり過ごせば、みんなもう忘れてしまう。

ネット世間に親しんでいる人たちは、恐らくは誰もがこんな感覚でいると思うんだけれど、普段ネットを見ない、ましてや2ちゃんねるを覗いたりしないような人たちは、なかなかそんなふうに割り切れない。「嫌がらせには無視が一番」というのは、あくまでもネット上での常識であって、ネットよりも圧倒的に実世界に親しんだ、ネットをむしろ気持ち悪いと思う人たちに、「ネットでこんな叩かれ方をしている」なんて話を接続すると、恐らくそれは、想定以上に深刻な事態を引き起こす。

「あの人が、あなたの悪口を言っていたよ」なんて告げられれば、たいていの人は、恐らくは「ああこの人とはつきあわないほうがいいな」なんて、告げた人とは遠ざかろうと思う。一方で、「いいことを教えてくれた。あなたは本当の友達だ」なんて、告げられた「あの人」に憎悪をたぎらせる人もたしかにいて、攻撃する側が、こういう人を味方につけると、問題はしばしば、実態以上に深刻な結果を引き起こす。

教育は難しい

リテラシーを身につけましょう」なんて叫ぶのは、間違ってはいないんだけれど、解決にはつながらない。

漏れてはいけない情報というものは、人を疑うことを知らない、「いい人」から漏れていく。「情報を大切にしましょう」なんて教育を行うと、こういう人はたいてい、いい点を取る。ところが実際に情報を渡されると、情報漏洩する。「いい人」で、「えらい人」というのが、本当におっかない。「鍵を貸して下さい。御社の金庫からお金を盗みたいんです」なんて、ネクタイに背広を着こんで、いい笑顔で握手しながらそう言うと、笑顔で鍵貸してくれる人はけっこういる。

「厳罰化」というやりかたも、恐らくは効果は少ない。「罰は怖いけれど、自分は情報を悪用しようなんて思わないから、全く関係がない」なんて、「関係ない」と思う人から、情報は簡単に逃げていく。

悪い想像力が必要なんだと思う

漏らしちゃいけない情報というのは、むしろ「悪い人」にこそ、管理させるべきなんだと思う。情報があることをまず開示して、それを使えばどういう悪事が働けるのか、それを想像できない人には、そもそもその情報を触らせない、という管理ポリシー。

情報の悪用なんて下らない。下らないし、やらないに越したことはないんだけれど、プライバシーの暴きかた、ゴミ箱あさりのやりかた、カモの探しかた、上手な告げ口や、印象操作のやりかたみたいなものを身につけて、ようやく初めて、「そういうのは下らないよ」って言う権利が生まれるのだと思う。

大学には、事実上すべての扉を開けられるマスターキーがあって、許可をもらった人しか触れなかった。大学祭の前日、事務長からマスターキーを貸してもらって、いろんな悪巧みを妄想してニヤニヤしてたら、「それは鍵屋さんでは絶対に複製できないから」とか、釘を刺された。

思いが顔に出ていた時点で、自分にはマスターキーを悪用する資格なんて無かったんだけれど、マスターキーを手にしてニヤニヤできない人というのは、大切な情報を触ったらいけないのだと思う。マスターキーをもらって悪事を想像できない人、「それは単なる大事な鍵だ」としか認識できない人は、下手すると大学が潰れかねないマスターキーを手に持って、それをふつうの鍵と同じようにしか管理できないだろうから。

それが鍵であれ情報であれ、受け取るときには、それを自分が悪用すると何かできるのか、それをなくすとどういう対処が発生するのか、それがコピーされたり、誰かに奪われるとどういうことが起きるのかを、3つセットで伝える、あるいは想像できる必要がある。

「そんなの伝えられるわけないだろう」なんて思う人、あるいは悪用する自分が想像できない人には、恐らくは情報を託しちゃいけないんだと思う。