おしまいの型というものがある

型というと、構えだとか、刀の振りかた、あるいは駒の並べかたや進めかたみたいな、むしろ序盤の技術を形容するための言葉に聞こえるのだけれど、達人と呼ばれる人たちというのはたぶん、「おしまいの型」というものを体得していて、ここに向かって、状況を動かしていくのだろうと思う。

名将の勝ちかた

歴史的な「名将」と呼ばれる人たちは、たいていは一つの「勝ちかた」しかしないのだという。戦争を勝つためには練習が必要で、部隊は大きな集団だから、一つの戦術をものにするには、とても長い時間がかかる。戦術というのは、だからいくつものやりかたに習熟することは不可能で、たくさんの戦術に手を出す将軍は、戦争で勝つことはできないのだと。

それは将軍であっても、エースパイロットや剣術の達人であっても、達人と呼ばれる人たちは、恐らくは一つの戦術を、「おしまいの型」として持っているのだと思う。達人にとっての戦いは、相手をある状況に追い込むまでの工程であって、その状況が成立したら、あとは機械的な作業になる。ルーチンワークは鍛えることができて、鍛えるほどに、速く確実なものになるから、結果として達人は、自分の得意な型にはまれば、誰にも負けない。

状況のバリエーションは無限にあって、目指すべき型を持っていない人は、とにかく目先のこの瞬間を有利することいがい、考えられない。そこを勝ったとして、そこからどこに向かって駒を進めればいいのか分からないから、型を持った達人とでは、勝負にならない。

「おしまいの型」は、「必殺技」と紛らわしいのだけれど、別物なんだと思う。零戦撃墜王であった坂井三郎は、零戦の必殺技である「左ひねりこみ」を、実戦ではほとんど使わなかったと、たしか語っておられた。

勝ちかたは逆側から考える

将棋の振り飛車とか居飛車穴熊みたいな、様々な打ちかたは、「型」よりもむしろ「必殺技」に近い考えかたなんだと思う。棋士の人たちはたぶん、みんな思い思いの「おしまいの型」というものを頭に描いていて、序盤から中盤の、様々な打ちかたというものは、棋士がそれぞれイメージしているであろう、「おしまいの型」にたどり着くための、手段に過ぎないんじゃないかと思う。

将棋の試合で、どちらかが「参りました」という瞬間が、恐らくは棋士が想定していた「おしまいの型」が、お互いに共有された瞬間なんだと思う。棋士の人たちは先を読むから、どちらかが「型に嵌められた」と気がついた時点で、そこから先は相手のペースで状況が進んでしまうから、ゲームを続けることに意味がなくなってしまう。

勝負事には状況の特異点のようなものがあって、それを知っている人、あるいは特異点に先に到達した人は、そこから先を型どおりに、力技で、半ば強引に、終盤まで状況を進めてしまうのだと思う。

達人は、「そこに至る過程」と、「そこ以降の進めかた」とを、恐らくは別個に、徹底的に鍛えてるから強いのであって、「ただ漠然と強い」達人というのは少ないような気がする。型を体得している人は、そこにたどり着くやりかたと、型自体を極めるやりかたと、自身のやるべきことを限定できるけれど、そもそも型を持っていない人は、ただ漠然と強くなりたいと願うことしかできない。お祈りは役に立たないし、強くなれない。

状況は無限である中で、無限に敗北して祈りに走る人と、無限の中に、強引に有限を見出して、力技に舵を切る人とがいるんだと思う。

あらゆる場所に型がある

「敵」のいるいないにかかわらず、あらゆる業界には「達人」がいて、その人たちはきっと、「おしまいの型」に相当する何かを身につけている。

たとえば弁護士の人ならば、「こちら側は誠意を持った対応を試みたのに、先方が聞く耳を持ってくれない」という型に状況を落とし込めれば、裁判を相当有利に進められる。こういう型を持っていれば、ある状況で相手から論破されたり、自らが頭を下げたりといった振る舞いは、「おしまいの型」に相手を嵌めるための、単なる手段になる。それが手段であるかぎり、腹も立たないし、自尊心も削れない。

うちは古い病院だから、製薬メーカーの人たちが、今でも毎日病院に来る。みんな営業の訓練を受けていて、身なりもきちんと、言葉遣いは丁寧なんだけれど、どこか押しつけがましくて、暑苦しい。あの人たちは、丁寧に振る舞う訓練こそ受けているけれど、相手を型に嵌めるための訓練を受けてないような気がする。

もっと大きな施設にいた頃、製薬メーカーのベテラン営業の人がいて、言葉遣いなんかはいっそぶっきらぼうなのに、「ここ」というタイミングには、いつもその場所にいてた。名前も知らない人なのに、どうしてだか、自分の側から、なにかその人の得になることを提供したいなんて考えさせられた。あれなんかはたぶん、よく言えば「おもてなし」の延長で、自分の言葉で言えば、その人が体得していた「おしまいの型」に、自分はまさに嵌められていたんだろうと思う。

じゃあ自分たちの業界で、たとえば医療者側からみて理不尽な要求を突きつけてくる人たちと相対して、なにかこうした「おしまいの型」に相当する状況が作れるものなのか、正直まだよく分からない。

「満足するような医療を提供できる施設を当たっていただければ、紹介状を書きますから、そういう方向で行きませんか?」なんて、相手の突っ込みに対してこちらは恐怖を表明するやりかたは、暫定的に役に立つこともあるんだけれど、もっと上手なやりかたはきっとあって、どこかに「達人」がいるはずなんだけれど、「型」を説明した交渉の本は、自分たちの業界にはまだまだ少ない。