不自由な言葉は話が通る

楽天の社内公用語が英語になった という記事を読んで考えたこと。

あえて「みんなが不自由な言葉を使う」ことで、得られるものというものが、案外たくさんあるんじゃないかと思った。

日本語は誰もが得意

楽天は日本の会社で、勤めている人のほとんどは日本人だろうから、日本語を使いこなすのが上手な人は、きっと多い。会社という場所、あるいは会議という場所で必要なのは利害のすり合わせだから、「得意な言葉」でそれをやると、誰もが言葉を飾ろうとする。

たとえば何かのプロジェクトがあって、投資した金額に見合った利益が得られなくても、官僚の人なんかはしばしば、「経済効果」なんて言葉を使う。お金を入れて、資金が回収できなくて、それを一言で表現すれば「失敗」なんだけれど、得意な言葉で失敗を語ると、「このプロジェクトがもたらした無形の経済効果は、きっと将来我々にとって、多大な利益をもたらしてくれるものと期待しています」なんて、お金が回収できなかったという事実は、将来への期待に置き換えられる。

そこに集まった人、とくにリーダー役の人が英語が不得意だったなら、こういう報告を「英語でお願い。俺にも分かるように」なんて言われて、たいていの人はたぶん、「ごめんなさい失敗しました」以上の会話ができない。英語がぺらぺらの人であっても、英語が不得意なリーダーに、英語で飾った言葉を発したところで、通じることはないだろうから。

制約と生産は逆比例する

現状間に合っている場所に、あえて不便さを持ち込むと、生産性がかえって高まる状況というものが、きっとあるのだと思う。

みんなが日本語で仕事をしている職場に、あえて英語を導入すると、今度は「英語が得意な奴ばっかりが実力以上に得をする」という状況が出現する可能性があるんだけれど、この状況は、リーダー役の人が英語が得意で、その人に、人を見る目が全くないという条件が両立していないと発生しない。

英語が不得意なリーダーが、無理して英語を使おうとすると、会議室では「俺。頑張る。これだけ儲けた。成功。」みたいな、なんだか言葉を覚えたての類人猿みたいな言葉があふれる。英語が得意な人がいたとして、自分の業績を美辞麗句で飾り立てても、リーダーには伝わらないし、下手するとリーダーの機嫌は悪くなる。

得意な言葉の奥深さみたいなものが、話を不必要に分かりにくくしている側面というのがたぶんあって、言葉を飾らない、言葉をひねらない、最小限の語彙で、阿呆でも分かる会話を心がけるルールが徹底されると、会議はずいぶん簡単になる。

美談とか、道徳の運用みたいなことは、言葉を発する側、それを受け取る側の両方が、その言葉に得意でないと、やりにくい。不便な言葉をあえて現場に導入することで、語ったり、飾ったりすることの効果が減って、判断すること、行動することの価値が、結果として高まる。

「要するに、何がおきたのですか?」なんて尋ねたくなる状況というのはいろんな場面で発生して、その時に、「要するに」という言葉が、相手から「要するに」を引っ張り出せる可能性というのは、日本語というリッチな言語メディアをお互いに使っていると、なかなか難しい。

「簡潔な会話で語るように精進しましょう」なんてスローガンを出しても、空気はそんなに変わらないけれど、「特定の単語を禁止する」とか、「一言は140字以内」みたいなやりかた、「明日から英語」みたいなルールというのは、代替案として有効な場面があるのだと思う。