「つまらない」は正義

口蹄疫の事例 についての、「私自身はやってきたことに全く反省、おわびすることはないと思っている」というコメントを見て思ったこと。

誤解を設定して、それに謝罪する

口蹄疫の対応にはマニュアルがあって、実際のところ、政治家の人に判断できることはそれほど多くないみたいだから、大臣が語っている言葉それ自体は、決して間違いではないのかもしれないけれど、クライシスコミュニケーションの基本を大きく外しているような気がした。

記者会見が開かれた時点で、メディアの人たちはたぶん、「問題があって、責任者は大臣である」という認識を持ってそこに来ている。問題のないところに、メディアの人たちに「問題がある」と思わせてしまったこの状況で、行われるべきは「相手の誤解に対する謝罪」であって、問題の否定ではないと思う。

問題がない状況で、「問題がない」と断言するのは悪手であって、こういうときにはたぶん、「問題があるという誤解」に対して、誤解を招いてしまったことを謝罪するのが正しいのだと思う。模範的にやるのなら、「我々の説明不足から国民の方々に不安を抱かせてしまい、申し訳ありませんでした。対策については今後、行われていることを遅滞なく伝えるよう徹底いたします」みたいな言葉になると思う。

官僚的な、紋切り型の、つまらない言い回しだけれど、謝るときにはたぶん、「つまらないこと」が、大きな価値を持つ。

謝罪に面白さはいらない

謝りかたとか首のすくめかた、やり過ごしかたというのは、視聴者の側からみて「こう」という定型があって、定型を演じれば、それはつまらないから、メディアも大きく報じられない。報じるコストは、「つまらない」謝罪には引き合わないから。

謝る必要が発生したときに、まず思い出すべきなのは、 「面白く謝る必要はないんだ」ということなんだと思う。謝罪においてはたぶん、「上手」「下手」には価値がない。「平凡な謝罪」と「非凡な謝罪」という価値のみがそこにあって、「非凡な謝罪」が持つ価値というのは、非凡を思いつくコストほどには高くない。考え抜かれた非凡な謝罪は、迅速で平凡な謝罪に負けてしまう。

「非凡な謝罪」は時々効果的だけれど、、その非凡さに打たれて燃え上がる人が出現する。謝罪というのは「火消し」であって、それが平凡な、水みたいな謝罪であっても、すぐに使えば火は消える。油田火災みたいな特殊な状況でもないかぎり、水で消せる火を、あえて爆薬で消火する意味は薄い。

「つまらない」という価値

状況ごとの「つまらない」は、それを知っている人から買わないと分からない。

「つまらないやりかた」というものは「つまらない」から、その状況にあって、どうすれば一番つまらない振る舞いができるのか、とっさには理解しにくい。「つまらない」が存在するのは、ちょうど雲の中心みたいな場所で、非凡な場所、雲の切れ目なら、明るい場所を目指せば到達できるけれど、雲の濃い中をどれだけ迷ったところで、そこが中心であるという保証は得られない。

雲の中心を探すためには、雲を外から眺める必要があって、これは過去の事例を収集、分析しないとできないことだから、たぶん外から買ったほうが速い。

PR会社には、恐らくはこうした「つまらないやりかた」の事例が蓄積されているのだろうし、つまらないやりかたを、マニュアルどおりに踏襲することで、つまらないやりかたは、ますますつまらないものになって、その価値を増す。

政治経済から子供向けアニメの話題まで、あらゆる情報が等価に、すごい勢いで消費されている現代だからこそ、「つまらない」という価値が、これから生きてくる。