むかつく人のこと

自分の人間性に問題があると言われれば、これはもうそのとおりとしか言いようがないんだけれど、 いろんな人と喋ったり、何かをお願いする機会があって、「この人は使える」なんて感じる人と、 話していてもなんだか暑苦しいというか、「この人は使えないな」なんて感じる人とが明らかにいる。

誰かの評判が、医局で話題になることは滅多にないんだけれど、その人の使える、使えないという感覚は、 他の先生がたを見ていても、ある程度共通しているように思えて、その感覚は一応、 個人的な好き嫌いとは、異なっている気がする。

恐らくはたぶん、その人の「使える度」というものは、仕事の成果だとか、成功率なんかとは、事実上無関係なのだと思う。

どうしたってバイアスがかかる

当直をするときには、いろんな職種の人と一緒に泊まることになる。ものすごく気がつく人もいれば、 何かをお願いして、けっこうな確率でそれを忘れてしまう人もいる。

じゃあ自分が、忘れてしまうような人を「使えない」と感覚しているかと言えばそうでもなくて、 その人個人に限ってしまうと、自分は不思議と、その人を「使える人」であると認識している。 何かを頼んで、「ああ忘れてました」なんて機会が何度かあって、自分はそのことを覚えているのに、 やっぱりその人のことを、「彼は使えるはずなのに失敗した」なんて、すごく好意的なバイアスをかけて解釈してしまう。

逆の人もいる。なんだか仕事がぎくしゃくしているように思えて、「使えない」ように見える人。 自分は別に、そのぎくしゃくしたイメージから迷惑を被った記憶もないし、 仕事上のミスと呼べるものは、その人なんかはむしろ少ないと思うのに、不思議と「使えない」ように、 せっかく上げた成果を、好意的に解釈されていないような人というのが、どうしたっている。

「いじめ」みたいなのとはまた、方向性が違うような気がする。「使える」人が、必ずしもみんなの人気者というわけではないし、 「使えない」人が、実際問題失敗はないから、その部署の中心人物として働いていたりするから。

成果が組織の生死に直結するような状況、外資系の企業なんかはまた全然違うのだろうけれど、状況がそこまで切迫していない ときには、その人の「使える度」というものは、恐らくは大部分が印象だとか見た目、 少なくとも「成果」とはかけ離れたパラメーターに支配されていて、「使えない」という印象を背負った人は、 しばしばたぶん、「成果」を通じた空気との対峙を試みて、それがなんの効果も上げないことに理不尽な思いをしているんだと思う。

事例

  • 「先生お忙しいところ本当に申し訳ありません、○○さんという患者さんがいて、この人が今日、○○時ぐらいに受付に来て、急なお願いがあるということで、先生に相談をさせていただきたいのですが、今お時間大丈夫でしょうか」なんて、外来の真っ最中に聞きに来る人がいる。「見れば分かるだろうよ」と思うんだけれど、こういう人はなによりも、これだけ長い言葉を費やして、本題に入らない。書類を書いてほしいなら「今日中に書いてほしい書類があるのですが」でいいし、今すぐ対応しないとトラブルになることならば、「緊急です。今すぐ来て下さい」で済む。先が見えないというのは不安で、説くに話を聞く側が忙しいときには、不安がたぶん、「むかつき」に直結する
  • 食べ物屋さんに並んでいて、受付の人が慣れていなかったからなのか、自分の会計が済んだのに、予約券をもらえないまま、次の人の会計が始まったことがある。次の人の会計が済んで、そのあと自分が予約券をもらえるなら、それで話は済むんだけれど、受付の人から「あなたのことはちゃんと気に留めています」というメッセージが発信されないと、これがストレスになる。こんなのは一言「ちょっと待って下さいね。すいませんね」なんて、会計の人が、こちら側に継続のシグナルを出してくれれば、もうそれで大丈夫だったんだけれど
  • 感情が先走った言葉というのが、やっぱりストレスになる。「先生申し訳ありません。実は○○さんという患者さんがおりまして、この人が○月○日外来に来て、書類を今すぐ書いてほしいとおっしゃいまして、このときに私が対応をしたのですが…」とか、すごく申し訳なさそうに、ダーッと話を切り出す人というのがいる。この人が今、自分に対して申し訳なく思っていて、その人なりに言葉を選んで、丁寧に話そうといているというのはよく分かるんだけれど、感情だけ先に来て、これから来るのはどうせろくでもない話に決まっていて、で、この間自分にできることは、何もない。感情が先に来て、いつまでたっても情報が来ないと、この時間差がとても疲れる

「むかつく」感情というのは、要するに「ずれ」から生まれるんだと思う。最初の事例なら、彼我の置かれた状況のずれ、食べ物屋さんの事例は、お互い抱えた仕事、この場合は会計と、食べ物を持って帰るという仕事について、「終了」と「継続」の感覚とがずれているわけだし、最後のは「感情」と「情報」とのずれが、それぞれストレスを生んでいる。

「使える」認定される人というのは、たぶんこのあたりのずれが少なかったり、それを隠蔽するのが上手であって、逆に「使えない」人というのはたぶん、 そういうずれに遭遇したとき、それを「丁寧さ」で補おうとして、状況を悪化させてしまうのだと思う。

制約が居心地の良さを作る

相手に対する想像力があれば、問題は解決するのだろうけれど、想像力を鍛えるとか、頑張るというのは難しい。

暫定的な解決手段になるのは、やっぱり「ルール」や「マニュアル」なんだと思う。以前に書いた「会話タグ」なんかもそうだし、 たとえばマクドナルドだと、会計の台には自分のトレイが置かれる。お金を支払っても、空っぽのトレイが会計台に置かれている限り、 お客さんには「自分のタスクがまだ継続している」というメッセージが伝わるから、あのトレイは、お互いずれを防ぐ役に立っている。

居心地の良さというのは、制約が生み出すのだろうと思う。

制限だらけの体育会が、それでも中にいると何となく居心地がいいのは、そこに集まった全ての人に、その人なりの役割とか、 許される振る舞いという物が厳密に決められているからであって、みんなが演じるべきシナリオを持っているから、 感覚のずれみたいな物が発生しないのだと思う。

自分にとって居心地のいい制約を発想してそれを相手に押しつけるのが上手な上司というのは、たぶんその人は快適で、 その人と働く人もまた、理不尽な思いをしなくて済むような気がする。制約を押しつけない、何でも自由にしていいよ、 という言いかたをする上司というのがいたとして、そういう人はたぶん、いろんな状況に「むかついて」、 その人のまわりには、「使えない」人ばかりになってしまう。

明示的な制約は、それ自体がストレスになる。制約のない空間には、今度はストレスにつながる自由ばかりが増えていく。 そこにいる人がありのままに振る舞った結果が、誰かが期待した役割と一致していたとき、 お互いの居心地の良さを最大にできる。

「教育」とか「自覚」でなく、適切な制約のデザインが、「使える人」を増やすんだと思う。