未来から道筋を探す

チームで何かを生み出すときには、「こんなものを作りたい」という目的と、もう一つ、「それが達成された未来」のビジョンを、なるべく具体的に語れるように思い描いておくと、意思統一がしやすい。

方向要素と距離要素

「こうしたい」と、「それでさらにどうなってほしい」とを想定して、それを共有することで、リーダーがどういう思考に基づいて「こう」を目指したのか、点が2つ作れると、方向と、飛躍の距離を測定することができるから、議論が収斂しやすくなる。

「こうしたい」という目的だけだと、恐らくは「その先」が拡散する。そこに至るまでの道筋も、方向が共有できないから、議論が拡散してしまう。

「こうしたい」と「その先」とが決定できると、今度は恐らく、「その先の未来」から、まだ何も始まっていない現時点に至るまでのロードマップが描ける。道筋が、叩き台として議論の場に登場するから、何が実現可能で、自分たちに何が不足しているのか、議論の場には様々な話題が浮かんでくるだろうけれど、全ての話題は、物事を前に進める役に立つ。

逆に言うとたぶん、「こんなことをしたいんだ」という人に、「それが実現したとして、それで何をやりたいの?」とその先の未来を尋ねて、その人の思い描くビジョンに納得がいかなかったら、「こんなこと」がどれだけ魅力的なものに思えても、チームは上手く行かないのだと思う。

理解と納得

「目的」と「その先」との関係は、「理解」と「納得」との関係に似ている。

何かの問題点だとか、リーダーが現状をどう把握しているのかとか、物事を「点」として理解することは全てのはじまりだけれど、そこから先をどうすればいいのか、問題解決の手順だとか、あるいはそもそも、それは解決しなくてはいけない問題なのかとか、意見は分かれて、「理解」だけでは話がまとまらない。

問題点があって、その人がそれをどう考え、どう不便に思い、それをどうしたいのか、できればその思考プロセスを自分のものにできて、「理解」は「納得」に到達する。納得というのはだから、方向要素と距離要素とを合わせ持ったものとして、理解とは区別されるべきなのだと思う。

みんなでものを作るときには、だから「入り口」に当たる場所に、リーダーになる人の「目的」と「その先」とを掲示して、目的を読んで、その先に至る道筋に納得できた人だけを通すようにしないと、たぶん議論があれて、まとまるものもまとまらなくなってしまう。

同じ材料を使っても、見えている目的が違えばありようは変わるし、同じものを作ったとして、それを使って何をしたいのか、目指すものが違っていたなら、紹介のしかたや広めかた、盛り上げかたみたいな、作ったもの自体と同じぐらいに大切なものは、全て変わってきてしまう。

序列の根拠は大切

中の人の「こうしたい」が、誰が見ても分かる場所に看板として掲げられることで、たぶん初めて、無数のアイデアからどれを選び、どれをスルーするのか、根拠が生まれる。「コンセプトからの近さ」という形で、序列を付けられるだろうから。

このあたりを曖昧に、「みんなでいいものを作っていきましょう」みたいにやってしまうと、もしかしたらせっかく作った議論の場所に、別の誰かが正義を持ち込む。目的はかすんで、本来目指していた何かは、声の圧力に形を変えて、全く別のものへと変わってしまう。

成功しているオープンソースプロジェクトは、しばしば「穏やかな独裁者」が支配していて、みんなの合議ですばらしい何かが生まれ、それが今でも続いている状況というのは、あんまり聞かない。

実社会とPCプログラムとを混同してはいけないのかもしれないけれど、「目的のはっきりしない議論が許される場所」を作ってしまうのは、ものを作ったり、何かの問題をみんなで解決するやりかたとして、あんまりいいことではないような気がする。