できないことのデザイン

PCを操作するためのインターフェースは、紙テープからキーボードへ、ウィンドウとマウスへと、進歩した。PCの性能が向上して、できることが増えていく一方で、マウスやウィンドウといった、ユーザーから見たPCの顔は、「PCにできないこと」が、より分かりやすく伝わる方向で改良された。

その機械に「できない」ことをより分かりやすく伝えることが、デザインの役割なのだと思う。たとえばコンピューターを動かすための道具が、未だにパンチカードから進歩していなかったなら、ほとんどのユーザーは、マウスをクリックする代わりに、コンピューターを「呪符」で動く魔法の道具みたいに考える。世界のどこかに、「なんでもかなえる魔法のカード」があるはずだから、エンジニアはきっと、毎日のようにお客さんから怒鳴られる。

無茶なことをいう人が増えた

「あと4時間したら海外に出かけるから、今からこの下痢を止めて下さい」とか、子供が怪我して、明日朝からそれでも家族旅行だから、「明日の外科外来には来ないけれど何とかして下さい」とか、そういうことを言う患者さんは昔からいるんだけれど、最近増えた。これがせめて、来週から旅行だから、念のため抗生物質一式下さいとか、明日は病院に来られないから消毒セット一式下さいとか、そういう依頼ならばあるいはまだしも何とかなるし、相談の余地もあるんだけれど。

コンビニ受診」というのはもう日常用語だけれど、コンビニエンスストアが提供している価値というのは、たぶん「予期の代行」なのだったのだろうと思う。

昔だったら「どうしてちゃんと考えて準備しなかったんだ」とか、「こうなることを何で想像できなかったんだ」とか怒られるような状況でも、今ならコンビニエンスストアがあるから、そこにでかければ、たいていのことはけっこう何とかなってしまう。

全国にコンビニエンスストアが普及して、もうそれが当たり前になってしまったものだから、あらかじめ計画を立てるとか、必要なものを前もって準備するとか、そういう能力は、そこにあるコンビニエンスストアに任せられるようになって、結果としてもしかしたら、準備ができるとか、そういう能力の価値というのは、今はもうずいぶん低くなってしまった。

「今すぐ何とかしろ妥協はゆるさん」という患者さんはたぶん、何かを計画するとか、状況が変わって、次にどうするとか、そういう予期に、価値を認めていない。それは価値のない考えかただから、そもそも考えないし、何があっても「今すぐお前が何とかすればいい」という解答が、真っ先に返ってきてしまう。

限界を想像しやすいデザイン

学校の先生が、「毎朝子供の家を回って、モーニングコールをして歩いて下さい」なんて要請されたり、自分たちに「今すぐ」を求められたり、こういうのはたぶん、ユーザーの人たちから見た「学校の先生」だとか、「医師」のデザインというものが、もはや学校や、病院が持っている機能に追いつけなくなったということなんだろうと思う。

「できることの限界を想像しやすいデザイン」というのが大切になっていく。

アトムとかガンダムにできることというのは分かりにくくて、一方で、たとえばパワーショベルとかクレーンなら、見れば機能が想像できて、山を平らにならしたい人は、迷うことなく、クレーン車でなくパワーショベルをレンタルする。アトムやガンダムは、ロボットとしてははるかに高機能であるにもかかわらず、デザインとして、どこか後退している気もする。

ユーザーから見た病院のデザインというものは、今も昔も「外来に座った白衣の人間」であって、インターフェースが変わらない一方で、薬だとか道具、病院の機能というものだけは、一方向的に拡大している。患者さんの側からみて、インターフェースの裏側にある「得体の知れなさ」だけが、どんどん増えてる。

iPhoneを見て、たとえば「おサイフケータイ」の機能がついていないとか、列車の予約がやりにくいことに文句を言う人はいるだろうけれど、あの道具をたとえば、「乗用車のタイヤ交換に使えない」なんて怒り出す人はいない。成功したデザインは、できることだけでなく、できないことを、ユーザーに正しく伝えることができるから、ユーザーは、道具の機能を容易に想像することができるし、ユーザー自身もまた、デザインを通じて、機能の改良に貢献することができる。

インターフェースとしての、道具としての、その職業に就いている人を再デザインすること、あるいは「人」がやっていたものを、別の何かで置き換えることが、多くの人に快適をもたらすのだと思う。