書かれなかったことから見えてくる

情報というのは、書かれたこと以外に、書かれなかったことにも載っていて、それを読むことで、作者が何を伝えたかったのか、外から科せられた制約の中、何を重視して、何を「伝える必要がない」と判断したのかが見えてくることがある。

研修医には制限がある

ローテーション研修制度ができて、今はいろんな病院で研修医を募集して、質の高い研修だとか、勉強の機会だとかを競い合ってる。恐らくああいうのをいくら読んだところで、これから研修医になる人たちは、果たしてどの病院に行くのが一番いいのか、自分のやりたいことと、その病院が提供している研修メニューと、どのぐらい同じ方向を向いているのか、分からないのだと思う。

効率の問題は多少あるだろうけれど、研修医の人たちが、与えられた2年間という時間で学べること、体験できることはやはり有限で、限られた時間、限られた能力の中、研修医の人たちに、どんなことを教え、どんな経験をしてもらうことで、翌年以降の成長につなげられるのか、こういうものは、伝えることよりもむしろ、何を伝えず、何を教えないのか、教える側が、教えないものに自覚的でないと、伝達が上手くいかない。

「うちの研修は質が高いんです」という言いかたは、ちょっとずるい気がする。医療というのは習得可能な、伝達可能な技術であって、そこでしか学べない何かがあったら、それはもう、技術としての医療とは違うから。

「新卒研修医の奪いあい」というゲームには、だから本来はルールがあって、それはたぶん、同じお弁当箱、同じ予算を与えられた中で作ったお弁当を比べるような、ピークの性能でなく、むしろ「編集」に近い能力、限られた条件の中でどれを選択枝、どれを捨てるのか、制約というものを、どう生かしていいものを目指すのか、そんな能力の競い合いなんだと思う。

弁当箱の蓋を叩く人

「お弁当コンテスト」みたいなルールだと、日の丸弁当では、たぶん勝てない。それこそ梅干しを漬けるところからはじめたような、恐ろしく手の込んだおかずを一品作って、余ったスペースにご飯だけ詰め込んだところで、その心意気こそ買われるかもだけれど、「お弁当」としての完成度は、必ずしも高くならない。

臨床研修というコンテストにも似たようなところがたぶんあって、「何を学べるのか」に注目するよりも、むしろ「何を学べないのか」に注目したほうがいい。最高の何かを見つけてその施設に入ったところで、2年たって、余ったスペースにご飯だけ詰め込まれてしまうかもしれない。

研修病院の選択をコンテスト形式で比較しようと思ったら、やっぱりルールは学生さんが作らないといけない。

たとえば2年間という時間で、知らないといけない疾患を100、できないといけない手技を100、それぞれ「お題」として準備して、それを明らかに足りないページ数に詰め込んだ本を、それぞれの病院に作ってもらって、お互い比較するような。知識や体験の総量が200あったとして、その本に入る量を150ぐらいに絞れば、各施設が何を重視し、何を削除するのか、削除された何かを見ることで、それぞれの研修病院が、研修医に、2年間という時間を通じてどんな人間になってほしいのか、施設の思いみたいなのが見えてくる。

そういうルールを学生側からお願いして、「うちは気合いで200全部だ」っていう施設は、お弁当作らせたら蓋も閉まらないドカ盛りをする人で、そういうところで頑張っても、ひたすら怒られて、学べるものは、下手すると150に届かない。お弁当の蓋が閉まらなくて、蓋をバンバン叩いて怒り狂ってたらおかしな人なのに、研修医に無茶な知識を詰め込もうとして、入らないから頭をバンバン叩いて壊す上司というのは、どうしてだか「熱心な人」と思われがちだけれど、叩くと時々壊れるし、盛られた知識はこぼれてしまう。

150の枠があったら、その中にきっちり150だけ用意できる施設というのが、恐らくはまともな研修を受けられる最低条件なのだと思う。伝えるべき知識や体験の重み付けがきちんとできている施設なら、枠が150なら150分、120なら120分の知識を、その施設が考える重要さの順番で、きっちり詰め込んでくれるはずだから、そこから先は、その施設が見せてくれた「お弁当箱」を眺めて、自分の好みで選べるといい。

書かれなかったものを知る

「書かれなかったもの」を知るためには、その代わり、何が書かれる予定であったのかを知らないといけない。学生レベルだと無理だし、研修医の人たちも、もちろんこれから自分に書き込まれるものがどういうものなのか、知るよしもない。こういうのはだから、いくつかの施設の3年目ぐらいを集めて、彼らが持っている知識や技量をリストアップして、それぞれを習得するためにかかった時間を教えてもらうといいのだと思う。全てを重ねると、2年間では絶対に学びきれない量の、知識と体験のリストができる。

「これから書き込まれるはずの全てのこと」がリスト化できたら、それぞれの研修病院に、各施設がリストの中から何を選択枝、何を削除するのかを、できれば伝達手段も含めて公開してもらえば、いろんなものが見えてくる。熱心さだとか、すばらしさだとか、叫びの影で消されている何かは、体験を受け取る側から動かないと、絶対に見えない。

本に書かなかったこと

いろんなことがあって、内科診療ヒントブック という本を書きました。

自分は循環器内科経由で、いまは市中病院で一般内科をしているから、本にはやっぱり、そういう体験が透けています。

たとえばこの本には、血液疾患のことがほとんど書かれていません。血液内科は自律しているというか、採血検査に異常があって、患者さんを血液内科に紹介すると、あとはだいたい、全ての問題について、総合的に診てくれることが多かったので。

同じような理由で、悪性腫瘍についての記載も、自分の本にはほとんど書かれていません。このへんは地域差があるのでしょうが、今住んでいる県は、悪性腫瘍は主に外科の領域で、外科治療はもちろん、化学療法も含めて、悪性腫瘍に関するほとんど全てのことは、外科の指示で行われることが多いので。

体験も少なくて、知識も浅いくせに、自分の本には、膠原病の検査に関する記載を行っています。査読をして下さった先生からも、膠原病は、疑った時点で、きちんとした専門家に紹介したほうがいいよ、というアドバイスをいただいて、脚注にそう記載しました。ところがうちの県には、そもそも「膠原病の専門家」がいなくて、皮膚科や整形外科、腎臓内科にそれぞれ専門が分かれてしまっています。自分たちである程度のところまでやらないと、そもそも患者さんをどこに紹介していいのかが決定できないという状況があり、それがこういう記載となって現れています。

この本は、知識はある程度広く、ごく浅く、自分が診断/治療を行えるというよりも、異常のある患者さんを見逃さないように、その患者さんを、しかるべき専門家に、なるべく早く紹介できるような、専門家が作るネットワークの、言わば「ハブ」になれるような、そんな医師を目指している人なら、きっと役に立つんじゃないかと思います。

機会があったら、手にとっていただけると幸いです。。